せめて告知板に、
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○嬢よ! 十時まで待ったが君の姿が見えぬ。さらば! 僕は断然日本アルプスへ行く。
おお、山は何物よりも強く僕を魅惑する
               K
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とでも書いたらいい。
 もしも、貴下の愛人が、
「妾《わたし》も山へ登りたいわ、女性にだって登高本能はあることよ、だって妾、煙突なんかへ登りたくはないの、ねえ伴《つ》れてってくんない?」
とでも言ったなら、勇躍して引受けてよろしい。そして山上の突風の場合、または、急斜面の雪渓登行の際などを考慮して、服装に付いては、ややもするとパラシュートのようになり勝ちなスカートはいけない事、乗馬型のズボンが断然優秀な事などを注意しさえすれば、チョコレートと、コンパクトとは忘れるような事は決してないでしょう。
 さて、その翌朝、山麓の×駅に、相携えた二人の登山者は、かねて顔馳染《かおなじみ》である案内者に迎えられた。彼は彼氏をあたかも旧主の如く莞爾《にこ》やかに迎えて、その同伴者たる彼女にも野人らしい愛想を以て敬意を表した。
 いよいよ登高の第一日が始まる。草いきれのする裾野路。淙々
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