も躊躇《ちゅうちょ》するだろう、何だか形容のしようもない。今眼前|咫尺《しせき》に、この偉観に接した自分は、一種の魔力に魅せられてか、覚えずあっとしたまま、暫時言葉も出なかった。此処が東穂高の絶嶂、天狗岩とでも名づけよう。

    八 横尾谷

 今|吾《われ》らのいる前後数町の間は、かつて、測量員すら逡巡して通行しなかったところ、案内者も、今回が初対面、岩角に縋《すが》り綱を手繰《たぐ》り、または偃松を握りなどし、辛くも、連稜の最低部=槍と穂高の交綏点《こうすいてん》についた。高さは約二千六百八十米突。此処で少々山稜と離れ、東へ五、六丁、大磧を過ぎ残雪を踏み、十時五十分、横尾の谷底につき、休憩して中食をしまう。
 同行のフ氏は、晩《おそ》くも本日午前十時までに、槍下で、昨日温泉から直接槍に向うた友人と出逢う手筈《てはず》だ、というていたが、今後なお五時間もかからねば、目的地に達する事が出来ぬのに、はや定刻を過ぎているので、すぐ東に分れ、くだんの谷を下り、温泉へと霧の裡に影を没し去った。

    九 南岳

 フ氏と分れ、大磧を西北にさし、高山植物の茂れる急斜地を踏みわけ、二十分で
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