も躊躇《ちゅうちょ》するだろう、何だか形容のしようもない。今眼前|咫尺《しせき》に、この偉観に接した自分は、一種の魔力に魅せられてか、覚えずあっとしたまま、暫時言葉も出なかった。此処が東穂高の絶嶂、天狗岩とでも名づけよう。

    八 横尾谷

 今|吾《われ》らのいる前後数町の間は、かつて、測量員すら逡巡して通行しなかったところ、案内者も、今回が初対面、岩角に縋《すが》り綱を手繰《たぐ》り、または偃松を握りなどし、辛くも、連稜の最低部=槍と穂高の交綏点《こうすいてん》についた。高さは約二千六百八十米突。此処で少々山稜と離れ、東へ五、六丁、大磧を過ぎ残雪を踏み、十時五十分、横尾の谷底につき、休憩して中食をしまう。
 同行のフ氏は、晩《おそ》くも本日午前十時までに、槍下で、昨日温泉から直接槍に向うた友人と出逢う手筈《てはず》だ、というていたが、今後なお五時間もかからねば、目的地に達する事が出来ぬのに、はや定刻を過ぎているので、すぐ東に分れ、くだんの谷を下り、温泉へと霧の裡に影を没し去った。

    九 南岳

 フ氏と分れ、大磧を西北にさし、高山植物の茂れる急斜地を踏みわけ、二十分で手近き山稜、右に折るれば、槍の最南峰に当る絶嶮地、半ば以上登ると、錫杖の頭を並べたような兀々《こつこつ》した巉岩が数多《あまた》競い立っている。先ずこの右側を廻り、次に左側に向って大嶂壁の下を通り抜ける、今度は「廻れ右」して、この嶂壁の中間にある幾条かの割目を探り、岩角に咬《かじ》りついて登るのだ。峰頭を仰ぐと危岩が転げ落ちそうで、思わず首がすくむ、足下は何十丈だかしれぬ深谷、ちょっとでも踏みそこなうものなら、身も魂もこの世のものとは思われぬ。右に左に、折り返し、繰り返して山頂に攀じ、零時三十五分、三角点の下につき、ほっ[#「ほっ」に傍点]と一息つく。標高約二千九百四十米突。峰頭平凡で記すべき事はない、南岳と命名した。

    十 岩石と偃松

 この近辺を界して、南方の岩石は、藍色末に胡摩塩《ごましお》を少々振りかけたような斑点、藍灰色で堅緻だから、山稜も従って稜々《ぎざぎざ》して、穂高の岩石と、形質がいささかも違わぬ。同じ石英斑岩でも、これから槍下までのは、胡摩塩状斑点が減じて青色を帯び、赤褐色の大豆《だいず》大の塊が点々混ってやや軟かい、砂礫の多量に含む処を見ると、風化し易《や
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