て向う岸に移り、少し行くとまた小沢がある。それを過ぎてから山のひらを左斜に登ろうと試みたが、笹が深いので歩けない。それで沢を上ることに決めて、引返して小沢を登り始めた。百五十米も登ったろうと思う頃、沢が尽きて一の尾根に出た。自分らはこの時根利山の最高点をきわめることは断念して、国境の尾根へ出たならば上州峠の道に下って砥沢へ行こうと相談一決したので、この尾根を国境山脈と想定して、右の方へ下りはじめた。しかるに余り下り方が激しいので疑わしくなり、とにかくもう少し高い方へ登って見ることにして、かなり急峻な斜面を百米も登ると頂上らしい所に出た。潮のようにさしひきする霧の絶間から眺めると、左の方に尾根らしいものが続いている。これこそ国境山脈に相違あるまいと断定して、右即ち北に向って尾根上を辿り出した。何しろ二人とも磁石を持っていなかったので、さっぱり方角は分らず、今までの道筋を頭の中に描いて、それによって方向を判断するより外に方法はなかった。最早《もはや》暮れるに間もあるまいと思うが、時計を出して見る間も惜しく足にまかせて急いだ。尾根の上は黒木が繁っているので笹が少く、大《おおい》に歩きよかった。ある場所では明瞭に路が認められ、またある場所では焚火の跡などもあった。峠の道もさして遠くはないはずと急ぎに急いだが、一時間以上歩いてもまだそれらしきものにぶつからない。足もとはしだいに暗くなってたどたどしくなって来た。先へ行った藤島君が明るい所へ出ましたという。自分らは突然暗い黒木立の中から明るみへ抛《ほう》り出されたように感じた。木を伐《き》り払った跡である。日当りがよいので笹が人丈より高く延びている。のみならずその中には枯枝が縦横に交錯しているので明るくなって助かったと思ったのもつかの間、歩行は以前よりも遥に困難となった。その代りに下り一方である。ここは笹が深く燃料も豊富であるから、水はないが、携帯の食料で一夜を明すには相当の場所であった。しかし峠も近い事と信じていたので、なおも下りを続けてついに鞍部に達した。けれども峠の道はない。もしあっても暗くて探し出すのはむずかしい。午後三時頃から小歇《こやみ》となっていた雨がまた降り出して、風さえも加って来た。五時半頃である。前方右手の谷間に火の光が明るく雨や霧ににじんで見える。大方上州峠の途中にあるというお助小屋か、さもなくば鉄索運転の番小屋であろうと思う。遠くもないようであるが、到底そこまでは行かれない。一層のこと今夜はこのまま夜明しをしようではないかと無造作に話がまとまって、右手の落葉松《からまつ》を植林した斜面を少し下り、下草の多そうな処へ寄り懸るように腰を据えて、藤島君は防水マントを被り、自分は木の幹や枝でばりばりに裂けた蝙蝠傘《こうもりがさ》を翳《かざ》して、全く徹夜の準備が出来た。あとは夜の明けるのを待つばかりだ。その夜明けまでの長さ。
 とうとう長い夜も明けた。見ると妙な場所に陣取っていたものだ。今一間も下ると二人楽に寝られるいい平があったのに。足もとの明るくなると同時に歩き出したが、気候も温く下着も充分に着てはいたものの、十一月の雨中に一夜を立ちつくしたのであるから、体がぎこちなく手足が敏活に動かぬ。尾根は登りとなって深い笹が足にからまり、横から突風に襲われると、二人ともややもすれば吹き倒されそうで容易に足が進まない。それで風下の右手の谷へ下りて、昨夜火光の見えた方向へ辿り行くことにし、そろそろ斜面を下った。午前八時である。間もなく小さい沢に出てそれを下ると、鞍部から四十分を費して本流との合流点に達した。本流の傾斜はかなり急で、時折瀑布に近い急湍をなして、険悪の相を呈することもあったが、瀑と称すべきものはなかった。ただ砂防工事を施した場所が二ヶ所あってこれが滝をなしている。それを下るのが困難であった。ことに下の方のものは手間が取れた。幾回となく徒渉したが、水は不思議にも冷くない。後で聞くとこれは赤岩沢というのだそうで、その名のごとく赭色の崩岩が河原にごろごろしていた。二時間近く下ると左岸の山腹に道らしきものが見え、暫くして河を横断して筧《かけひ》の懸るのをみた。そこから右岸のちょっとした坂を上るとたちまち眼前に人家が現れた。折よく人が来たので此処《ここ》は何処でしょうと聞くと、砥沢だと答えたので、銀山平方面のみ下りおることと信じていた自分らは開いた口が塞らぬほどに驚いたと同時に、不用意に目的地の砥沢へ出られたのを喜んだ。
 後で考えると自分らは、地図の小径に従って千六百八十米の圏を有する峰の右側を迂廻し、鞍部に出るとその小径は不明となって、別に古い路跡が殆んど等高線に沿うて、尾根の右側をからんでいたのでそれにまぎれ込み、国境から発源している最初の沢を渡り、小沢に沿うてその北の尾根に
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