上り、左に西南の方向を取って、地図の小径のすぐ北に在る千九百二十米の圏を有する峰(ネナ山、餅ヶ瀬の称呼)の頂上附近に達し、その時左に見えたものは即ち小径の在る尾根であったのを、袈裟丸山に続く国境尾根と誤り、右に国境尾根を南進したのを、反て北に向って進んだものと信じ、千九百五十七米の三角点(流小屋ノ頭、餅ヶ瀬の称呼)あるすぐ北の峰から真西に向って枝尾根を下りながらやはり真直ぐに進んでいると思ったのであった。上州側のこの辺は八林班であるから既に伐採が済んで、植林も終っていたのである。北風にしては温いと思ったのも道理、実は南風であったのだ。二度も殆んど直角に曲っておりながら、少しも気付かず直線に進行しているものと信じていることなどは、単に地図上で判断しては、到底了解されるものではない。
砥沢には宿屋はないが、飯場をしている吉田留吉という人の家で泊めてくれるとのことに、そこを尋ねて一泊頼むと快く応じてくれた。座敷に通ると火鉢や炬燵《こたつ》に火を山のように入れてもらって、濡れた物を乾しにかかった。身に着いていたもので濡れていないものは一つもなかった。風呂に入ってドテラに着換え、炬燵に寝ころんでやっと人心地がついた。二人とも著しく食慾が減退しているのに気が付く。昨夜ビスケットを少したべたまま、晩も朝も食わず、その上もう昼を過ぎている。それにもかかわらず膳に向って箸《はし》を取ると、汁の外は喉を通らぬ。やむなく生卵を二つばかり飲んで三食に代えた。よほど体に変調を来したものと見える。これで山登りが出来るかと心配になった。藤島君は若いだけに元気がよく、一、二杯は平げたようであった。
三時頃になって西の空が明るくなったと思うと、青空が現れて日がさして来た。ひまをみて帳場に行き、主人に皇海山のことを聞いた。よくは知らぬがこの先の不動沢から登れるそうだとのことで、伐採が入っているから路があるかも知れぬと附け足した。何にしても登れることは確かだ。それで乾し物に全力を注いだが、翌朝になっても全部乾燥しなかった。
十九日の朝も依然として食慾がない。辛くも一椀を挙げ、また干し物に手間取って出発したのは午前八時五十分であった。家の前を少し西に行き、右に折れて砥沢を渡り、坂を登り切ると尾根の上の少し平な所に出る。東北に黒木の繁った皇海山の姿が初めて近く望まれた。延間《えんま》峠の方へは一条の径とともに鉄索が通じている。その方面の山はことごとく伐り払われて、今不動沢が正に伐木の最中である。下りはかなり急であった。九時五十分不動沢着。沢の両岸には半永久的の小屋が散在している。小屋の前で働いていた老人にまた皇海のことを聞いてみた。その話によると、皇海山の西の鞍部から頂上へかけて切明けがある。そして平滝からその鞍部への道と通じているから其処《そこ》へ出て登れば楽である。まだ登っては見ぬが頂上には剣が奉納してあると聞いたと教えてくれた。地図と対照して実際の地形を視《み》ると、皇海山の西方から発源する不動沢の左股を遡《さかのぼ》るのが楽でもあり、かつ都合もよいように思われるので、それを登ることとして沢を渡り、道に沿うて最奥の小屋まで行き右に折れて林中を進むと左から来るかなりの沢に出た。十時半である。右下にもかなりの沢が流れている。それは右股でこれが左股に相違ないと断定して、十分ばかり休んでから沢を登り初めた。割合に歩きよい沢だ、十分も進むと河床は、縦横に裂目が入って柱状を呈している玄武岩らしき一枚岩となって、その上を水が瀉下するさまがやや奇観であった。十時五十五分、左から沢が来た。十一時二十分、また左から小さな沢が合した。振り返ると谷の空に遠く金字形の峰頭が浮んでいる。何山であるかその時は判然しなかったが、四阿山《あずまやさん》の頂上であることを後に知った。暫くして二丈ばかりの瀑があり、右から小沢が合している。瀑の左側をからみ、苦もなくこれを越えるとまた三丈ばかりの滝があった。それを上って一町も行くと、また左に一沢を分っている。其処から三町程度進むと流は尽きそうになって、ちょろちょろ水が岩間に湛えているに過ぎない。そこで昼飯にした。谷の眺望が少し開けて、雁坂から金峰に至る秩父山塊、浅間山、その前に矢筈山、その右に四阿山などが見えた。空が急に曇って西北の風が強く吹き出したと思うと、霰が降り間もなく雪がちらついてきた。動かずにいると手足がかじかむ程寒い。幸に雪は幾程もなく霽《は》れた。
水のない谷はいつの間にか山ひらに変っていた。下生えがないので歩きよい。黒木の林中は秩父あたりとよく似ている。しかし尾根の頂上近くには大分倒木があった。その中を潜り抜けて皇海山西方の鞍部に辿り着いたのが午後十二時四十分である。眼を上げると奥白根の雪に輝くドームが正面に聳え、左に錫と笠の二
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