魚の寝入っているのも見物したいが夜中に巉岩《ざんがん》を蹈む勇気もなくて行かなかった、小一時間も過ぎると人夫が帰えって来た、明日の仕度もあるから喰うだけ獲て来たというて、四十尾ほど持って来た、なるほど岩魚も寝入るものと見える。
 二十日は六時五分に出立した、直に只見川を渉って対岸の岩壁を攀《よ》じるのである、この辺の只見川は水量が多くて、自分のようなコンパスの短いものは殆んど股まで達しる、山側を躋《のぼ》り尽すと高原的の処となるが、闊葉樹林の下に例の熊笹が繁茂していて、展望もなければ歩行も決して楽ではない、山毛欅の大樹に通行者の姓名や時日が記してあるのを栞《しおり》として、熊笹を分けたり蹈んだりして進んで行く、自分は友人の保阪定三郎氏の記名がある樹木を視《み》てすこぶる可懐《なつか》しく感じた、この辺は総て燧岳の裾野である、只見川の本流が懸水をなしている三丈瀑布を瞰下することが出来る、四時半に熊笹が全く絶えて一大曠野に出た、渺々とした茅の中に幾万の黄菅《きすげ》が咲いていて、美観が譬《たと》うるに物なしである、間もなく一小廃屋の前に出た、自分は太早計《だいそうけい》にもここを上州の尾瀬
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