はないので、一番愛惜して後に残っていた詩人達の本を手離した瞬間は苦しかったが、青江のいる方へ歩いていく足はひどく軽かった。久能がアパアトの曲り迂った楷段を登っていって青江の部屋の扉を押すと鍵が降りていた。今度出ている会社は随分退けが遅いのだなと、彼は懐から鍵を取り出した。その鍵を彼は何度、河の中へ捨てようか旧い記憶を一切捨てて明るい気分に帰ろうかと決心しかけても、病んでいるのが幽鬱であればある程、青江が恋しくなって、隠しの中にしっかと蔵っていた。扉を開くと、青江がいるような香が狭い部屋に立ち罩めていた。すると久能は、自分が勉強しているところへ、青江がやって来て、眉をひそめさせたのもこれだったと思い出し、着物などに触れて見、胸が痛くなり、疑いを忘れた微笑が浮んで、苦しまない時があったから、苦しい時が来たのだ。やがてまた明るい日が来るだろうと、もう時というものだけに頭を垂れていた。暗くなっていく部屋にしょんぼりと坐っていると、ふっと故郷にいる母の痩せた顔が出て来、また、最近手にした母の手紙の中の、卒業の上は小説などと申さず、何にても真面目な職につかれ、よき妻を娶られたく、という文句を思い出すと、涙の流れ出ないのが寂しく、まさかに母は自分があのような病院に通い、こんな女の部屋にみじめな姿でいるとは想像していないだろう。母の期待の崩れていくのが眼に見え、急いで母の姿を追いやると、今度は頼子が現われ女との間に距離を置かない惨めさをよく知っている彼女から嗤われているのが感じられ、又、その後には得態の知れぬ顔の群が久能を責めて来るのに耐えていると、ふいに久能はぞっとして立ちあがり、青江の持物を調べようと思付いた。彼は先ず押入のなかに頭を突込んで黒いトランクを引き出した。古いハンドバックや、手袋や、ビイズの財布や、香料の空瓶などと一緒に出て来た一束の手紙と写真帖を、これだと丹念に調べると、写真帖は前に見た通り、青江の小さい頃からのスナップばかりであったが只一つ最後に久能の学生服姿の八ツ切が新らたに張られ、日附が認められていて、その日附は久能にもすぐに思い当った。青江はやはり俺を愛しているのだ、とそれから手紙を読み始めたが、その中にも青江に味方する手紙があったきりだった。それは青江から女の友達にあてて書かれたもので、その封を切ると、青江が久能から疑われて苦しんでいる様が説かれ、死んで了いたいと記された、青江のように文章の拙ない訴えには、奇妙な切実さがしみ出ていて久能の心を打たずにいなかった。併しこの手紙を出さなかった裡には何か青江の良心に影があるのだと復疑い久能が手紙を束ねかけるとばらばらと四、五枚の便箋が落ちたので、取りあげてみると、金線で縁どった立派なもので××ホテルのしるしがあった。久能は何の気もなく、凝ったものだなと思っただけで、そのままトランクに投げ込み、それから、帽子の函や、茶箪笥の抽出しや、雑誌の間や、下駄箱まで血眼にひっかきまわし、万一青江の不純を裏書きするようなものが出て来たらという怖ろしさに止めよう、止めようと制しながら、うつろな眼をすえ、顫える手で、夜具までも引き出して調べずにいられなかった。もう手をつけるものがなくなり、火鉢の傍に帰ってうずくまると息がふうふうと切れ、何一つ青江を責めるもののないのに却って不安になり、どうしても青江に真実をいわさずには置かない決心が久能を慄え出させていた。
すると漸く青江が帰って来た。随分待って? きっと今夜はお出でと思ってこれでも急いで帰って来たのよ、お土産もあるわと青江がうれしげに寄って来ても、久能は振向かず、眉をひきつり、ぷっぷっと煙草のけむりを吐いていた。どうかなさって? と心配する青江の腕を肩から振り落し、むき直って冷淡に、今日はお別れに来たのだ、というと青江は、え※[#疑問符感嘆符、1−8−77] どこかへお出かけになるの、と膝を進めるので、久能は、ここへ来るのをこれきりにしようと思って来た、と答えると、青江は、信用しなくなり、おどかさないでよ、と魅惑的に笑い、狭い台所に降りて夕食の仕度を始めた。久能は自分の思う壺に落ちて来ない青江を持て余しながら、どうすれば彼女の鉄の様な唇を開くことが出来るだろうと考えていた。併し向い合って箸を取り出すと決心も、疑も弛み、青江の楽しげな笑いにまき込まれそうになった。こうしていると本当の夫婦の様ね、いいや本当の夫婦なんだわ、と青江が擽るような眼差をすると、久能は他人がみたらそう思うだろうさ、併し本人達のみじめさはどうだ、敵と一緒にいるというのは此の事だ、と苦笑したが、でもうれしいわ、と青江は食器を片づけ出すのだった。その時、青江の艶やかさが痛む程久能の眼にしみて、ああ俺は完全に青江の奴隷になりかけているな、あの時分は追いかけられていたのだが、今は一心に追っているなと感じ、殊更に冷淡に構え、虚勢を張っていると、着換えに押入を開いた青江は皮肉るように久能を見くだして、あなた、何かさがしたんじゃない? というので、久能はむっとして、捜されること知ってるあなたが、見付けられて悪いもの、何残して置くものかと怒ると、青江は殺倒する様に久能にしがみついて来、未だうたぐってるの? あたしがそんなに信じられない? ね、あたし信じられるためだったらどんなことでもするわ、そんな事より早く丈夫になって明るい顔してくださらない? と真剣に頼むので、久能は、何でもするね、するね、それじゃ本当のこといってくれ! 僕はどんな事いわれたって本当のことなら我慢するから、というと、青江はないことだけはいえないわ、そりあ無理よ、と髪をかき出した。
ある夜久能は、死にたい、青江にも死んで呉れといった。青江の眼は動かなかった。僕はこんな信じ切れない状態で生きていたくなくなっている。自分の果したい仕事も開けて来ないし、この世に信じられるものは一つもない、青江が一緒に死んでくれて、彼女だけは信じさせてくれと、久能は青江の両手を抱いていった。そう? うん、判ったわ、と青江はしまいにいった。あたしもあなたを本当に気の毒に思っていてよ、急にそんな事いい出したの判るわ、だけど、それはあなたの本心じゃないんじゃない? あなたは未だ未だ将来を考えてるわ、あたしと結婚したくないんだって、そのためだわ。久能は青江のいう通りだ。こんな事で死んで了っては余りに他愛なさすぎる、俺には逞しい慾望がない訳では決してないのだ、と思いながら、どうしても自殺する決心だときかなかった。すると青江は、きっとあたしを脅かして何かいわせたいためなんでしょ? あたしに罠をかけてるんでしょ? そんなことされちゃ、あたしは意地になるだけだわ、いいえ、あたしにうしろ昏いとこあるからじゃない、意地でなら、一緒に死んであげてよ、あたしが潔白なことあなたに見せるためなら、だけど、あたし、それじゃあなたの他人になって死ぬのね、といった。久能は尚、説いて、どうせ人間の口でいう事なんか信じられない。あなたがその意地で、他人になって死んだら僕はうれしいんだ、二人が苦しみ出して絶命する迄に、きっと僕はどうしてもあなたを信じないではいられない瞬間にぶつかると思っているんだよ、僕を本当に愛しているのだったらこんな無理きいてくれないか?
久能はそういいながら青江から圧迫を感じた。青江が本当に久能の自殺する気になっていないのを察し切って、あわて出さずにいるらしい、彼女があわて出さずにいれば、自分の方が先にあわて出すだろうと思うと、久能はもう観念の眼を閉じて、青江に負けていてはもう切りのない悲惨だ。本当に自殺しようとあやしい決意にゆすぶられ不安になって来た。それは丁度青江のなかにとびこんでいく前の不安と同じな怖しく、蕩かすような誘惑だった。
久能と青江は街に出てキネマを見に這入った。久能は無感覚に画面をみつめ、青江の手を握っていた。楽しいようでもあった。そして、死というものはこんなに安易な、まやかしなものなのだろうか? と考えていた。青江にも変った風はなく、ときどき花粉にまみれたように化粧した顔をふりむけて久能に笑いかけ、指に力をこめた。しかし青江の奴、いつ逃げ出すかしれない。そうしたら自分はどう感ずるだろう、ホッとするか、失望するか、考えまわし、ガスの充満した部屋を描き、無様に死んでいる二人を他人の様に想像していた。
久能が本当に死にかかったのはその初夏だった。職を求めるために無理をして、よい経過をとらなかったので、久能はその頃、治療費に窮して、三ツ木に紹介された医学生から薬をもらっていると、その不注意で余り薬が劇しすぎたため、排尿が困難になり、文字通り部屋中七転八倒して苦しんでいると、膀胱が破裂し、危篤に陥入った。久能は勿論、死を覚悟していた。若い精神の本能的な不透明さが遂に此処まで来たのを知って、すべてを何か知らぬが、大きなものの手に委ねつくして、あわてたり、わめいたりしようとしなかった。勿論、久能にしても、これからまだまだなし遂げたい仕事もあり、老母も気がかりであったが、今になっては戦い疲れていて、自分の死を比較的冷やかに待っていた。病室には三ツ木が蒼白になって付きそっていた。彼はどういう縁故からか、ある銀行に入りこみ、算盤も出来ないのでそこでは接待掛をやり、一朝、事ある時の警衛の役目も持ち、普断は箒をかかえて掃除役をしているのであったが、久能のいる病院に駈けつけて来て、彼の黒ずんで、全く弾力のない顔をみると、大変なことになったなあ、俺があんな男を紹介しなかったら、ちぇっと叫び、おい、久能、しっかりしてくれ、絶望じゃないぞ、手術の結果がいいそうだからと少しも答えない久能に、自分が第一の責任者かのようにしきりに詫びていたが、久能はじっと濁った瞳で天井をみつめていた。すると三ツ木は、久能はこのまま死ぬのじゃないかと気懸りになり、久能、誰かに会いたくないか? お母さんを呼ぼうか? 兄さんに来てもらう? というと、久能は頭を振った。三ツ木は青江の事が舌の先にまで出て来ていながら、久能にそれだけは惨酷なようで訊けなかった。だが久能も青江を思っていた。会いたくはあった。久能達は遺書を書き、ガスを部屋に放出すると、久能に寄ってじっと眼をつむっている青江に較べて、自然にがたがたと慄え出すのをこらえて、久能は息苦しくなった声で、本当をいってくれと哀願し出すと、青江は石のように黙って、かすかに細眼を開いただけだった。久能は、青江め、俺の負けるのを待っているのだな、恐ろしい事だ、この恐ろしい青江の魅力がもう俺のものでなくなって了うのだと思い出すと、自分の敗色が明らかになり、苦しいと叫ぼうとする声が出なくなりかけてい、突然狂気になってガス栓に走り寄ろうとする足が動かなかった‥‥それ以来久能は青江に会わなかった。思い屈して一度訪ねては行ったが大垣に帰ったと聞いて帰って来た。久能は自分をあわれみ、あれほどの青江の強情さは、もう尊敬していいではないかと思って来た。こういう瀕死の場合、久能は青江を信じたまま静かに死を迎えようとしていた。
併し久能が急に青江に会いたいといい出したのは、彼の生命が取止められたと医師から告げられた朝だった。三ツ木は興奮してとび込んで来、俺は君が死んだら、頭を剃って西国巡礼に出かける気でいたよ、と、あははははと笑うと、久能は棘棘しい表情で、しきりにいらいらしていたが、とうとう青江に電報を打って呉れといった。三ツ木は変だなと思ったが看護婦に電報を打たせにやると、久能は、青江が来たら、僕は絶望だといって呉れと、無愛想にいって顔を伏せた。三ツ木は久能の眼に涙が光っていたのを見、久能はまだ青江に含んでいるのだな、こんな疲れた、灰色の皮膚の下に嫉妬がのたうっているのか、哀れな奴だ、と彼の長く伸びた頬ひげを見ていた。
翌朝、青江は花束を抱いて病室に現われた。看護婦に案内されて入って来たのを見ると急いで三ツ木は廊下に出た。どうなさったの? 青江の頬は濡れていて、唇が白痴のように開いていた。久能は薄目でそれをみとると、怒りが消え弱い微笑が全身に
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