機嫌を取るために、頼子には全く無関心をよそおい、青江の額に手を触れ、髪を撫でるのだった。併し漠然と、こうしていたら、病床から起き出したとき、青江に冷淡さを示すのは随分困難になりそうだと不安になった。それでも母か、奴隷としての、青江のひたむきさに久能は惹きつけられ始めていた。
 久能はまた学校に通い出した。久能達の作品は悉く不評、というより何の評判も聞えなかった。旅行から二三日前に帰って研究室に遊びに来た龍野氏に偶然、出遇うと、龍野氏は約束を果さなかった言訳を簡単にいったきり、不快げに眼を細く光らしていた。それで久能は自分達の作品に対する龍野氏の不満が判ったばかりでなく、氏の留守中に久能が妹を訪門したのを気づいたらしい肉身的な不快さが読みとれ久能の背筋は冷たくなった。思い余って久能は、数日前、随筆のお礼にかこつけて、龍野氏の留守を知りながら頼子を訪ねていった。玄関に這入って行くと、頼子が弾いているらしく、ピアノの音が洩れ、女中があらわれると一緒に、それは止み、いよいよ頼子に会うことが出来るのだという期待で、動悸を算えていると、女中は、口を曲げて出て来、頼子は外出中だといった。ピアノを弾く年頃の人は彼女のほかにいない筈なのだがと、併し言い返しも出来ず、打ちひしがれたように退き、何かの翳に斜にみあげると、左側の龍野氏の書斎の群青の帷の隙間から頼子の顔が覗いているので、瞬間じっとみつめると、頼子は誇ったような表情を動かさず、見降しているので、久能は不用意な卑屈さで頭をさげていた。帰る途中、頼子という女はあくまでも遠くから働きかけて来、近づいてくると、ぴたりと入口を閉める、青江とは反対の聡明な女なのだ。そう思い出し、龍野氏と別れて、九輪を型どった青銅の噴泉の傍に呆然としていると、三ツ木がニヤニヤしながら遣って来た。お茶を啜りながら、遂々自分では書かなかった三ツ木は各同人の作品を痛罵し出したので、久能は自分の作品も一たまりもなくやられるのが判っているので、逃げ仕度をしていると、三ツ木は急に声をひそめ、久能に近寄って、久能君、非道く評判ですよ、君は誰に清書させたんですか、久能の奴こんな女文字の原稿を送ってくるなんて不届な奴だといって憤慨していた男もあったぜ、といい出したので久能は急に返事が出来ず、青江が黒い鞭になって、彼の面をずたずたにひったたくのを感じながら、赤くなって、僕が病気でいる中に、青江が、僕の許しも受けず清書したのだと弁解しても、三ツ木は愈々平たい頤を久能の眼前一ぱいに拡げて、嫉ましそうな眼をつりあげてしばたたき、もう君はあの娘を認識しているんですね、と止めを刺したようにいって笑い出した。久能は苦い虫を噛んだように黙っていると、三ツ木は久能が承認したのだと信じて、青江の肌は妙らしいものだと説明しはじめ、俺にだって、ああいう助手がいたら義理にも傑作を書くなあといった挙句、また球を撞こうと誘い出した。久能は不快さの中にも三ツ木のキューを握っている恰好の憑かれた三昧境を思い浮べて、この男が文学をやるのは一体どういう心算なのだろうと不思議にも、おかしくもなったが、こういう同人のいる雑誌では長続きは勿論、いい結果は得られないなと考え、三ツ木と表へとび出した時、菊崎に出遇ったので、久能は彼に無形なものを追っている迂濶さを嗤われているようで不快だった。併し三ツ木は文科にもああいう莫迦がいるんでやりきれないよ、文学の何たるやも知らない奴だと罵っていた。
 その夜、眠りからふと眼を開くと、久能は体が未知な衝動で慄えるのを感じた。彼は球を撞いてから、隅田川の向うに行くのだといって金を借りて別れていった三ツ木の言葉を思い出していた。それは青春の心臓の妖しい潮騒だった。久能はもう久しい事その響をきいていたが、堰を破る程にも狂い出さず、いつも対象を遠い時と所とに置いていたのに、三ツ木は無理矢理にその距離を狭ばめ、ああ僕はもう今、淵の前に立っているのだな、と初めてわかり、青江が全く新らしい眼の前に立ち、自分は危険な一線に近づいていたのかと、三ツ木にして見れば平凡極まる推測が、久能にはなまましく、魅するような悪魔の言葉に聞きとれたのだった。久能は獣になろうとしている自分を感じ、愛し切れない青江にこれ以上近づいたら、その後に開けてくるのは地獄の外にはないのだと考え、もう三ツ木の言葉がかもし出した新らしい悪戦苦闘を闘い出していた。
 ある夜、その頃は秋も大分闌けていた、病気以来遊びに来ない日のなくなった青江は久能の部屋に這入ったきり出ていこうとしなかった。彼女は親達から帰国を強要されていた。そこには彼等が良縁だと熱心になっている相手が手を伸べていた。帰りたくないわ、と傍を離れない青江に久能は少しも感情の動きを示さないように努めて、東京にいても青江に格別な幸福があろうとも期待出来ない、(そう漠然と青江を突っぱなすのは久能には変に快よかった。或はそれは既に愛着の現われであったかもしれないが)あなたの親達のすすめている結婚の背後には暗い影も見えないようだし、その男も写真でみたところだけでは僕などよりずっとしっかりしていそうだ、と冷淡に言いながら、久能は自分がひそかに青江が反対に一層彼に頼って来るのを待っているのに気づき、三ツ木の悪魔の言葉がここにもうろついているのが知れ、冷酷ね、あなたはと青江の眼に涙が光り、溢れて来たのを、むしろうずうずして内心にうれしがっていて、頬を親切げにふいてやり、肩を抱いて暗い廊下に出ると、俺はとうとう青江にこのまま遠ざかってしまうのだな、と悪魔の声をききながら、そのまま押すように青江をその部屋に送りとどけた。そして自分の部屋に帰って来て枕にうずくまっていると、突然、体が左右に揺れ出して、そうなると久能は完全な一匹の獣類になって、孤独だ! 孤独だ! と吼えはじめて階段を辷りおり、青江さん! 来て下さい、僕は淋しくて狂い出しそうです、と三時をすぎた静寂の中にうつろな声で獣のようにささやいていた。
 久能は言葉を信じている性質の男だった。本当の嘘も云えない代りに、自分の言葉を最後まで守り通す意志もなかった。併し青江は言葉を信じなかった。相手を傷つけることでもいわないではいられない久能がそのときいった言葉は、結婚しないということだった。青江はその様な言葉の繊弱さを見抜いていて、未知な怖ろしさの中にも、晴れやかさの籠った声で、あたし大垣へ帰らないわ、ここの家にもいられないけど、もう決心がついているのよ、といって、秋の終りの自然の忘涼にくらべ、久能と青江は真夏の野の草いきれのなかにいた。翌年二月に父親が青江を迎えに上京して来る前日、久能にだけ行先を教えて、彼女は姿をかくした。久能は口でははっきり結婚を拒否していたが、遂にはそうせずにはいられなくなりそうだと感じ始めていた。
 春になっていた。併し久能には桜も、新緑もなかった。青空もなかった。彼は二月程前から忌わしい病気に罹っていた。久能はいつものように、もう夕暮に間近い街の前後を窺ってから、その白色の大きな病院にこそこそと這入っていった。逃げるように廊下を小走りして階段を登りかけると、降りて来た青年と頭を見合せ、あ、と思わず叫んで、二人とも立ち竦んだ。相手の男もまざまざと困惑を露わして、とんだ処で会いましたな、と思い切り悪く苦笑しくいた。久能は菊崎のてれているのを幾分滑稽に感じて、君がね? と、場所が場所だけにお互に痛くもあり、やはりやられているのだなという、軽蔑や、同情や、安心で、ではまたと、久能は上に菊崎は下に別れた。菊崎は勉強家で通っていたし卒業間際にもうある私立大学の教授の椅子を贏得た位なので、そんな処で出会ったのは全く意外だったが、それからも久能は度々その皮膚科の待合室で彼と顔を合せた。学生時代には余り親しんでもいなかったが、菊崎は前より無口でなくなっていて、僕は人生観が変りましたね、僕はもう家族からも友人からも無類の堅人と思い込まれているので、遣切れない程不自由な思をし、表面と裏面を演じわけるのに苦労してるんです、実に不快ですね、それに実際、この病気は陰欝ですね、お袋など、お前この頃心配があるのかねときくんですよ、びっくりしますね、それに一番困ったことには近々に結婚しなくちゃならない破目に陥っているんですよ、などと話して、久能さんは一体どこに出掛けたんですかと聞きはじめた。久能はその瞬間、苦しげに頬をゆがめて、僕はちっとも遊びなどした訳でないんですよ、自分でも原因が判らなくって、弱っているんですがね、といったがその言葉には少しも力がなく、だんだん追究されると、青江に持っている血のような疑いを口に出したくなって来るのだった。それでもさすがに恥じているので曖昧な返事をしていると菊崎は、じゃ素人ですね、と久能の避けているところに触れて来て、終には久能もかくしきれず、昨年の秋の末頃、僕はある純潔な娘と恋愛に落ちたのですが、ところが今年の二月頃、僕は突然異常を感じて、この病院に通い始めたんですと告白すると菊崎は眉を寄せて、それであなたに覚えがあるんですか、ときき、久能は面を伏せていい難そうに、いや、全然、それで僕は勿論、彼女に詰問したんですが彼女は頑強に潔白を主張するのですよ。僕はありとあらゆる手段を尽して彼女に泥を吐かせようと試みたのですが効目がなく、現に彼女自身は健康だといい張るのです。それではと僕は彼女をある病院に伴れて行きました。併し彼女は顔色一つ変えないで医者の前に立ってました。すると医者は診察する前に、僕を呼んで、何故診察を受けに来たかときくので僕が正直に事情を話すと、その博士は診断を拒絶したんです。[#「拒絶したんです。」は底本では「拒絶したんです」]そういう事件に関しては医者の権限外であるといって、問題の渦中に巻き込まれたくなかったのですね、僕の精神は緊張の結果、ひどく弱っていたので、僕自身もこの問題に深入りしまいと決心したのです、悪い女には却って魅力があるような気がしましてね、彼女が医者に行く前も後も何やら晴々していて、僕に親切にしている、恐らく罪の苛責というものを感じないでいる女の魅力‥‥僕は最初その女を愛していなかったのに、今では夢中になっているのです、と話すと、菊崎は憐れみの眼で久能を見、それは変ですね、あくまでも、非常な例外としては浴場や、トアレットで感染する場合があるそうですが、全然潔癖に通したのでない以上信じられない事ですねと、無遠慮にいったので、久能は再び疑いを新らしくする機会を与えられて、今度こそ青江に白状させないでは置かないと決心し、それに又自分は何故この様に真相を知りたがっているのだろう、大人というものは誰でも自分の知ることに限りがあるのを知っている様子なのにでなければ単に青江が自分を裏切ったのだと信じ切ってしまえば万事が終るではないか、自分では青江に本当の愛を誓わないでいる癖に、青江の行為が例えどの様に汚れていようと、自分にはそれを責める権能も、関心もない筈ではないのか、と反省しながらも、裏切ったばかりでなく、裏切っていることさえひた隠しにしている青江は二重に自分を裏切っているのだと、本能的にわいて来る口惜しさや、他の男の影がちらつく不快さに久能は眼前が昏くなった。その時久能は自分が青江に負けているのをしみじみ感じた。久能が結婚しないよといっても平気でいて、現実の行為の世界でずんずん久能をひきずっていく青江には勝てない、ああ俺はどうしてこんなにうわべの、青江の告白などという言葉ばかりを捜しているのだろう。今だにひたすら青江を信じたい気持が――俺は青江から純粋に愛されていたのだという意識や、記憶を持ちたい感情が、久能の胸の奥に恋々と居坐っていた。そしてそれ等を背景に置くと、青江の、今まで厭わしかった点が、急に眼を射るように輝き、久能を魅して来、到底青江から離れることは出来ないと思わせた。
 菊崎に別れて、久能は古本屋に立寄り、大事にしていた原語の詩集類を僅かな金に代えて売り払った。職に就けないでいる久能は蔵書を医療費にあてていた。それも元より多く
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