リラの手紙
豊田三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お主婦《かみ》さん

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
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 久能は千駄木の青江の家に移って卒業論文に取りかかった。同じ科の連中に較べると、かなり遅れていたので、狼狽気味に文献を調べ、此方に来ていない参考書を取り寄せたりした。大学の語学的な片よりを嫌って、その間近の喫茶店などにとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いて文学をやる友達のいないのを歎じたり、気焔をあげたりしていたが、実際には創作など発表している先輩がいても、自分の方から頭をさげて行く気にならないで、誰か誘いかける奴はいないかなと待っているだけだった。そんな不徹底さからも当然、将来の生活に不安を覚えて、学業をまるっきりもすてきれず、久能は真面目に講義に出ている友達からノートを借りて写したり、論文のテーマを築きあげたりしていた。するとそこへ三ツ木などが現われて雑誌を始めようとすすめたので、論文と一緒では録なものも書けまい、いや事によったら論文の方はなげ出して了ってもいい、どうせいずれにしても食えないのだと観念して、久能はその同人になり、余り立派でない、創刊号を送り出したのは、その夏の始めだった。併し案の通りその反響は凡んとなく、四号で潰れて了った。久能の記憶に深く残ったのはむしろ「リラの手紙」だった。手紙そのものとしても、また一層それから起った事からしても。その手紙に一番打たれたのは久能自身よりも青江だった。その頃三ツ木が彼を訪ねて来て、階段下の衣桁に彼女の華やかな着物がぬぎすてられてあったのを、おどけた身振で手に取って香を嗅ぎ、ふんと、久能の肩を叩いて鼻を鳴らしたことがあった。青江は女学生時代から遠縁のこの家に寄宿していて、京橋あたりの会社に勤めていた。久能は最初から彼女の豊満さや、短かく切った髪の毛に較べて不均合に大きい顔や、柔らかさと、智的な輝きのないのが嫌いで、青江と口をきいたことがなく、むこうでも、いつもぶしょう[#「ぶしょう」に傍点]に髪の毛を伸し放題にしている彼の存在を無視していて、稀に彼の部屋に来ても、むっと体臭を放って来る青江に生理的な圧迫を感じて、わざとそっぽをむいたり、字を追っていたりする久能の傍には五分といつかないで、男一人が壁に向って、しかめ面をして考え事をしている陰惨さを怕がったり、嗤ったりして出て行くのだった。実際、久能の部屋といえば、書物や切抜きが取りちらかり、足踏みもならなくなっているばかりか、花瓶はあっても横ざまにころがり、時々垢じみた万年床が敷いてあったりして、シックな青年を見馴れている青江の興味を惹くものはどこにもなかった。
 秋の初めのある夜図書館からの帰りに、久能はその時雑誌の三号目の編輯当番だったので、三ツ木の処に廻って原稿を催促すると、彼もまだ手をつけていず、久能君、不思議だねえ、と三ツ木は歎息していった、筆をとるまでは百千万の想像が阿修羅の如くあばれまわっていたのに、いざとなるとそいつらは宦官のようにおとなしくなっちまいましてね、併し久能君、落付いてやりましょう、と下宿を飛び出し、撞球屋に案内して、白珠、赤珠をごろごろ限りなく撞き出したので、久能がもて余していると、三ツ木は、僕はこうやっているとふっといい題材を思いつくんですよ、といって久能を散々に負かした。久能が下宿に帰ってくると鍵がおりていた。お主婦《かみ》さんが起きて開けてくれ、そうそうと思い出したように、久能さん、お手紙、青《ああ》ちゃんが預ってるわ、と少し皮肉らしくいったので、突嗟に久能は異常なものを感じた。今まで彼に来た手紙がそんな取扱をうけたことはなかった。すぐ階段を上らずに、まだ起きているのか、淡く灯のついている青江の部屋の障子を細目に開くと、仰向けの青江の白い寝顔が見えた。ちょっと、と呼びかけてみると、表情は動かなかったが、硬ばった頬と唇には明らかに意識が動いていて、眼が次第に開いて来、久能を上眼に盗み見ると、頸を縮めて夜具の中にかくれていった。手紙? と愛想なくせき立てると、青江は初めて眼ざめたように大きく眼を開いて、久能を睨みあげ、知らない、手紙なんか! あっちへいってよ、というので、久能は自分の過失を責められたみたいに、良心が狼狽して来た。翌朝久能が眼ざめると、無惨に開封された黄色い封筒が枕許に放り出してあった。開くと柔らかな芳香が流れ出して、達筆にかかれた青文字が微妙なデッサンに見えた。婦人から手紙を貰ったことのない久能は、陶酔的に胸が熱くなり、その中の事務的な文句が最初は魔の様に踊り出して、相手から余程の好意を寄せられたかのように誤信せずにいられなかった。久能は雑誌を飾るため新い作家として売り出していた龍野氏に原稿を依頼してあった。これは龍野氏の妹の頼子からの手紙で、兄は急に旅行に出かけたので、お約束を果すことが出来ない、宜しく伝えて呉れる様にとの事でしたという簡単な謝り状を久能は繰返し繰返し読み、頼子は恐らく自分達の仕事に関心をもっていて呉れるのだと推察し、ふと彼女も仏文学に堪能なことを思付くと、彼女に何か書いて貰おうとすぐ決心した。その夜青江を責めると、却って久能が浮き浮きしているのを逆襲され、青江の眼の色がいつもと違ってじっと自分を見据えているのに気づかず、青江のいう通りかも知れない、一二度龍野氏を訪ねた際、頼子に直接会いはしなかったが、襖越しに声を聞いたことはあり、龍野氏の前に踞んで、腕に余る猫を抱いていた写真を見て、兄の冷たい鋭どさが、ずっと奥にひそまって穏やかに輝いているのに惹かれたことがあった。実はその雑誌を今日古本屋で探し出して来て、妹の姿だけを切抜き、その手紙の中に入れて置いた処だった。久能が机の前に坐って、頼子宛の依頼状を認めていると、忍び足に階段を登って来た青江が平生にないおどおどした声で、入ってもよくってというので、急いで依頼状を隠し、うんと答えると、彼女は手に百合の花を持っていて、お友達にもらったのよ、と上気して言訳をいいながら、放り出されていた花瓶に生けて本柵の上に置くと、ああ強い、いやな匂だ、頼子の手紙のかおり[#「かおり」に傍点]の幻影が消えて了う、と不快さを明らさまに表わしながら、せっせと久能はノートを筆記した。忙しくて? と青江が寄って来ると忙しくて堪まらないんだ、こんなに溜っているとノートを広げて見せ、青江に少しの隙もみせず、追い遣って、階段の音がきえると、ホッとしてまた依頼状をかき出した。
 頼子の手紙が来てからというものは、どういう刺戟からか、久能に示した青江の変化は激しかった。隙をうかがっては彼の傍に現われて話しかけ、襟の屑を払ったり、しまいには夜具の汚れた上被を解いて洗い、毎日、新らしい花を生けた。久能は一向気づかない風だったが、ある夜帰って来るとノートが十二頁青江の手で写され、彼女は尚机にうつぶしになって一心にペンを動かしていた。久能はすぐ難かしい顔をして、ノートを取りあげてみると、拙劣な、しかし丁寧な字がならび、原語は四頁まで刻命に、それでも間違だらけで書きとられ、その次の頁から、原語だけは諦めたと見えて空白になっていた。繰り拡げている中に久能は羞かしさや、屈辱や、恐怖が湧いて来た。大垣で高利貸をしている青江の父や、玄人上りの、時々、株を張りに堂島に出かけていくという継母や、一眼で淫蕩を想像させる青江が自分の血に交ってくる予感! その押えきれない恐怖心で久能は青江を突き退け、僕のノートを汚さないで貰いたいなと震えた声音でいい、それだけでは不安を押えることも、怒りを相手に伝えることも出来ないという半ばは意識的な遣方で、いきなりばりばりと十二頁のノートを引きさいて、下へ持ってって下さいと青江の前に突き出すと、青江はかすかな冷笑で久能を見返し、なぜいけないの、というので、彼は、こんな字汚なくて読めない、と答え、久能さんの字だって綺麗な方じゃないわ、とやり返して来る青江に、僕の字はどんなに汚なくったって僕には読める、第一女の書いたノートを持って学校に行けるもんかと、突っぱなすと、青江は机の前に無表情に坐ったまま、頬に落ちて来る涙を頑くなに拭きもしないでいた。そうして向き合っていると、くやしいためなのか、圧迫されるためなのか、自然に眼頭が熱くなって、今にも弱身をみせそうになるので、自分の方から部屋を出ていき、夜の街を、暗いところ暗いところと歩みまわった。すると次第に青江が気の毒になり、自分の心の狭さが後悔され、ああ、あのまま知らぬ顔をしておれば、青江も喜ぶのだし、自分も労力を大分省けたものを、もっとずるくなって悉皆青江に写さして了えばいいものをと考え、遠くの何一つ本当の生活を知らない頼子に徒らな興味や尊敬をもちながら、近くで実際的な親切を尽して呉れる青江には何故こんなに冷淡なのだろう、青江の官能的な圧迫を一々悪意にとって彼女を苦しめるには当らないじゃあないか、自分は間違っている、青江にあやまろうと思っている中にまた、いや、僅かでも彼女を許せば、ずるずるっと彼女のとりこ[#「とりこ」に傍点]になって了うぞと怖ろしく感じ、とりとめなく歩きまわっていた。
 その夜から再び青江は久能に冷淡になった。勿論その蔭には強烈な意識が針のように動いていた。お互の時間がかけ違っていて機会は滅多になかったが、出会っても、知らぬ顔をし、一緒に食事する時も一枚の板のような表情だった。
 頼子から承諾の手紙が来た。同じ封筒、同じ芳香。しかし前とこれも同じ様に、取あえず、と認められてあった。この四字はいつも妙に白っちゃけていて、芳香に誘われて頼子に親しみを感じていく久能の心にひやりと冷たい氷をあてる、いわば防腐剤であった。しかし久能はその封筒を、父の遺した螺鈿の文筥に大事げにおさめた。
 久能が菊崎という同級の中で一番の真面目で通っている男の処へノートを返しに行くと驚ろいたことにはもう論文を自分でタイプしていて、久能さん、僕は昨夜――省の――局長を訪ねて来ましたよ、というので、久能は驚歎して、僕なんかまだ論文も書き始めないし、未だ就職運動どころじゃない、何しろ今小説を書いてるところですからねと答えると、菊崎は、困りますよ、そんな心掛じゃと白い歯で笑った。久能は、みていろ、俺だって、いい小説を書いて学校なんか蹴とばしてやるぞと意気込んで帰って来、二時近くまで、ペンを走らし、漸く書き終って読み返し出すと、消しや書き入れで支離滅裂になっているためか、書いた事が少しも心にふれて来ないだけでなく、何となく重苦しい気持なので、熱を計ると、いつの間にか高い熱が出ていた。いつもの扁桃腺だと高を括っていると、翌朝は愈々苦しくなり、肺炎を惹き起していて、熱が四十度を越えると、原稿、原稿とうわ[#「うわ」に傍点]言をいい初めていた。久能が意識を戻すと、青江が傍にいて胸に氷嚢を当てていた。久能はもう先頃の争そいを綺麗に忘れて、青江のするままに、薬を飲んだり、吸入したりした。一体に極端なほど病気に弱い久能はもうすっかり子供になっていて、母ちゃん、ここにいて、と病気の時は一刻も母を離さず、母の手を握っていたように、青江を離さず、青江の手をつかまえていた。そして十日程青江は会社を休んで久能の病床にいた。そして楽しげだった。そこへ雑誌が出来て来た。恢復期の奇妙に新鮮になっている久能の眼に初めて活字になった自分の名が、生きて踊っている小動物に見えた。頼子の随筆も載っていた。リラなのね、と青江はその終りの部分を突ついていった。その文章は昔から今日までのフランスの貴婦人達が愛した香料を考証したもので最後に、自分はリラの香を愛すると書かれていた。久能は青江に文筥から頼子の手紙を出させたが、感覚を失ったためなのかもうその匂は消えていた。青江が、そのお嬢さん、どんな人? と委しく聞き出すのを、久能は、幾日も看護されていた心の弱さで、青江の
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