に住しないでも、佛教の論法の通り、物質であるなら、それも圓滿、心靈であるなら、それも圓滿,圓滿な物と圓滿な物とは、既に同一なことを意味して居るのである。
僕の現象即實在論を用ゐて見ると、自然の事物が官能になつて、官能がまた知覺になる,知覺が思想に、思想が洞察に、洞察が理法に、理法がまた心靈になるので――これは、何も、向上して行くわけではない、犬から猫、猫から蛇と流轉して行く樣に、その機その機の状態を示めしただけで、心靈はまた自然であるのだ。僕は乃ち自然即心靈[#「自然即心靈」に白三角傍点]を主張するのである。この説ぐらゐ、人間の状態を活動せしむるものはない、エメルソンの如きは、あまり達觀してしまつたので、スヰデンボルグの聖書説明と同樣、固定して行つた傾きがある。
(十) 表象の轉換――無目的
自然即心靈、物心合一説も一種の形式ではあらうが、井上博士の樣に、わざ/\客觀的實在と主觀的實在とを別ち、存在その物をこと更らに分割して説明することが出來ようか。博士は、『精神は滅とも不滅とも云ふを得べし、唯々其立脚點の如何によるのみ、吾人が個體的精神と認定するものは、其實、假現的たるに過
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