ぎざるものにして、消滅を免れず』と云はれたが、博士の現象即實在論にして、果して大乘佛教的であるとすれば、『現象としての精神』もそのまゝ實在して居るものであるから、滅するとは云へなからう。
兎に角、デカートの云つた樣に、『われ考ふ、故にわれ存ず』にせよ、また『われ食ふ、故にわれ存ず』にしろ、存在して居るのは事實であるから、この事實に結びついて居る限りは、哲學者も――反對の説は立てることが出來るだらうが――僕としての立ち塲を迂闊なものだとは云へまい。たゞ僕は[#「たゞ僕は」に傍点]存在と流轉[#「存在と流轉」に白三角傍点]とを一緒に見て居るので、物が變形した時、その變形した方から云へば、初めから存在して居たのであるといふことを許さなければならない[#「とを一緒に見て居るので」〜「許さなければならない」に傍点]。それで、われなるものは、宇宙といふ大空明を遊動して居るので、宇宙その物にもなるし、また憚るところがないので、勝手次第に變形する――物質ともなり、官能ともなり、思想ともなり、理法、心靈ともなる。心靈も官能になれば、思想も犬や木にもなる。石や鐵も心靈になるのである。有形と無形、見えると
前へ
次へ
全161ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング