然し、純不純は別に論ずるまでもないので、この明鏡に映つるものは何か[#「この明鏡に映つるものは何か」に白三角傍点]といふ問題を定めて置きたい。僕は前に、完全な唯心論ならば、何も外界を否定するに及ばないと云つて置いたが、エメルソンは理法といふものを仲人《なかうど》として、自然を心靈のうちへ入れてしまつた。心靈が分らない以上は、――實際、そういふ物を格別に定めると、分るものではないから――自然の位置も矢張り判然しないのである。宗教家が見える、見えないの區別を立てゝ掛るのも、また、最も卑近な手段に過ぎない。僕から見れば、肉の目がある樣に、心にも目がある,また古の哲學者の如く、心と靈とを別なものとすれば、靈にも亦目があるに相違ない。そういふ風に考へて見ると、今、僕等が物質と見て居る物は、何もその形をいつもして居るのではない[#「僕等が物質と見て居る物は」〜「居るのではない」に傍点]、心靈の目から見れば、心靈そのものであるのだらう。從つて、神の目から云へば、神なのであらう。その神とか、心靈とかを云はないでも、一つの觀じ方[#「一つの觀じ方」に白三角傍点]が出來る――それは、何も唯物論や唯心論
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