、久遠の生命に入る準備ともいふべきことを、宗教の實行觀にあてはめたばかりで、たゞ平凡な宗教家の説明と違つて、スヰデンボルグ獨得の思想が固定してしまつたのに過ぎない。
渠の教義[#「渠の教義」に白三角傍点]に從へば、すべて物には物質的、心靈的の二方面がある,して、前者は後者の表象に過ぎない。この見解が非常に固定した形式を取つてしまつたのである。『新ジエルサレム、生命の教義』を見て分る,聖書の『エジプトは人にして神にあらず、その馬は肉にして靈にあらず』(以賽亞書[#入力者注(10)]三十一ノ三)とあるを解釋して、『エジプト』は人間の智慧から出た科學、『馬』はその肉的理解力の表象として、神がこの世に現はした物。――『人若しわれに居り、われ亦かれに居らば、多くの實を結ぶべし』(約翰傳[#入力者注(11)]十五ノ五)とあれば、その『實』とは、善を示めす爲めに、木に出來る物。――また、『木』は人、その『葉と花』は眞理の信仰を意味して居るし、美しい娼婦は乃ち虚僞のことを、ジエルサレムは教會を、アツシリヤは理性を、カルデヤは眞理の妄用を、バビロンは妄用された善を云ふのだ。表象主義もかう極端に狹くなつ
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