博士三宅雄次郎氏が『我觀小景』といふ書を著はして、宇宙は大なる人體であると云はれた。それでは分泌もやるだらうが、どこからやると、故大西博士が嘲つたが、故博士の樣に哲學史の迷ひ[#「哲學史の迷ひ」に傍点]――と僕は名づける心持ち――に這入つて居られた人には、到底こんな大膽な獨斷は出來なかつたのは無理もない。たとへ批評眼の鋭い者でも、一たび自分の説なるものが吐ける時が來たら、他人からは自分がやつたと同じ批評と冷笑とが來るのは、豫期して居なければならないのである。哲學の系統が立つたと思ふ時は、早や獨斷に這入つて居るので、よし又それが立つて居ないにしろ、自家に生命を與へて居る説なら、之を發表する勇氣が出て來るに定つて居る[#「自家に生命を」〜「定つて居る」に傍点]。三宅博士の著が出た頃は、僕もスヰデンボルグを知つて居たので、或は渠の思想が、梨倶吠陀[#入力者注(9)]讃歌のプルシヤ(Purusha)、乃ち、『原人』とも譯すべき思想と共に、多少の影響を博士に與へたのではないかと、面白く讀んだことがある。
 スヰデンボルグは、世界をかういふ風に料理して行くばかりでは滿足しなかつた。五十四歳の時、一
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