であつた樣なものだ。それから、最も樂しい青春と詩歌との時期に分るのは、それが眞理であるだらうと云ふこと、それが閃光と斷片とに於て眞理であることだ。それから、その面色が嚴格になり、莊大になつて、分るのはそれが眞理でなければならないことだ。』かうなれば、僕等の眞理は論理的となり、實際の行爲に現はれて來る樣になる譯である。
 エメルソンは、思想の圓熟して來てから、『報酬論』を書いた。渠は米國に生れただけあつて、僕等に染み込んで居る武士道の立ち塲から見れば、一種厭な感じのする根性があると云へば云はれるが、この論を讀んで見ると、また、渠獨得の想が顯はれて居る。一口に云へば、宇宙は大海の樣なもので若し少しでも善惡いづれかの空處があれば、直きにそこへ應報なるものが流れて行つて、もとの通りに平均さしてしまうといふ説[#「宇宙は大海の樣なもので」〜「平均さしてしまうといふ説」に傍点]である。その論中に僕等の心靈は、制限を受けないから、樂天觀を入れて、厭世觀を忌むものだと云つてある。エメルソンの思想が穩健で、着實であるところへ、唯心論といふ渠に取つては便利な形式を利用して、何でも分らないことはないと云ふ意
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