するのに一番便利だといふ譯である。
自然の位置!
これに就ては、メーテルリンクは別に哲學的根據となる程の言葉を云つて居ない樣だが、僕の意見を云ふ時、尚兩人の説に及ぶとして,エメルソンに據ると、思考的理性と實際的理性、云ひ換へれば、哲理と徳行とは、おのづから唯心的傾向を來たすもので――思想の光に照らして見ると、世界は常に現象的であるが、徳行はこの現象的なるものを制服して、内心に向けてしまう。エメルソンの唯心論は世界――自然――を一大心靈のうちに見たのである[#「エメルソンの」〜「見たのである」に白丸傍点]。
先きに非我と定めた自然は大我のうちに融和するので――それで、自然が全く無くなつて居るのかといふに、そうでもない。かうなると、大乘佛教の面影も見えて、世界は神聖な夢であつて、その夢の中にあらはれて居る自然は、心靈が百尺竿頭一歩を進めて、下方へ權化したので、心靈から云へば、その無意識的射影であるのだ[#「世界は神聖な夢であつて」〜「その無意識的射影であるのだ」に傍点]。僕等は乃ち神の落ちぶれたので、自分から現在の樣な姿になつたのである,自分等から太陽も月も流出したので、男子から出た
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