本博士の所謂喜劇としての科白劇と悲劇としての樂劇との兩立ではない,この兩者のいづれであるにしろ、それが解脱と解决とを與へるものが喜劇[#「喜劇」に白三角傍点]であつて、全く解决のない冥想劇が悲劇[#「悲劇」に白三角傍点]である。深刻な自然主義でなければ、かういふ悲劇にあらはれて來る神秘趣味を捉へることは出來ない[#「深刻な自然主義でなければ」〜「出來ない」に白丸傍点]。ダンヌンチオやメーテルリンクの劇を見ても、用語の上から神秘を強ゆる傾向があつて、全體としては、まだ僕が思ふ樣な作劇の型とすべきものは一つもないらしい[#「ダンヌンチオや」〜「一つもないらしい」に傍点]。僕が寡聞なので、今、その他に例となる樣な善い劇を擧げることは出來ないが、小山内薫氏がジエームスヒウンカアと云ふ人の書から抄譯して、新小説に紹介せられた瑞典の劇作者ストリンドベルヒ――これは、前に論じたスヰデンボルグと同國人――の著『伯爵令孃ユリエ』を引いて見よう。(その後、僕も小山内氏から借りて、この書を讀んで見たが)、氏の紹介に基いて云ふのであるから、或は僕の方へ我田引水のところがあるかも知れない。ユリエは幽靈の樣な精神
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