クセント、音勢[#「音勢」に白三角傍点]で行くのだが、音勢の少い、又は無いと云はれる日本詩や佛蘭西詩では、音量[#「音量」に白三角傍点]が主となつて居るので,之を誦する上から云つても、音勢で行くものは、音量を主とするものよりも、身體の律的活動に伴ふことが切實で、音量を主とするものは、音勢で行くものよりも、表情的節奏を利用する餘地が多い[#「音勢で行くものは」〜「餘地が多い」に傍点]。然し、僕が日本詩の律を二、三、四と定めた標凖は、或程度の音勢であることを記憶して貰ひたい[#「然し」〜「貰ひたい」に白丸傍点]。
 かういふ風に考へて來ると、詩と音樂とに拘らず、各國それ/″\の異同があるのは事實であつて、たゞ一つ兩者の生命でもあり、また兩者の類似點でもあるのは、カントが直觀的だと確證した數なるものを活用すること[#「數なるものを活用すること」に白三角傍点]だ。そこで、シヨーペンハウエルは、また、音樂は概念の樣に抽象的空虚のものでない、明了な規定を有することは、幾何學の圖又は數の樣であつて、實質のない純形式のものだから、直觀的にたゞ神を寫すばかりだと云つた。渠が形式といふのは、まだ音樂では滿
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