等が郊外に出る、そしてあの山は太郎作のだ、この森は權兵衞のだ、向ふの畑は丑松のだと見るばかりでは、何の美もない,美は野山全體の景色に浮ぶので、これは誰れの持ち物でもない、たゞ詩人の胸中に所有されて居るのだ――これが乃ち純全觀念である。
 この純全觀念に映つて來る自然が、宇宙の大原因に進むには階段がある。エメルソンは之をユース、方便[#「方便」に二重丸傍点]と名づけた――第一、物品,第二、美,第三、言語,第四、教練。
 第一の物品[#「物品」に白三角傍点]とは、自然から授かつて、すべて僕等の官能上に役に立つて呉れるもの。これは、人間を養ふものだが、之に養はれるのが目的でない――養はれて、それから向上的活動をするのが目的である。
 第二は、美[#「美」に白三角傍点]を愛すること。希臘《ギリシヤ》[#入力者注(5)]人は世界をコスモス(Κο´σμοσ)と呼んだが、これは同國語で格好、秩序、又は美といふ意味から來て居る。エメルソンは耳から這入る音樂の美を忘却して居るので、僕もこゝでは略すが、目は最高の建築家であれば、光は第一等の畫工であると云つて居る[#「目は最高の」〜「云つて居る」に傍点]。
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