ないとすれば、エメルソンの思想は論理上の根據は無くなるだらうが、渠自身の價値は變はらない――エメルソンの唯心的論理は形式であつて、その生命とするところは別にあるのだ。
その文體を見ても分る、短刀直入、アービングの樣な形容詞を避けて、實質のある名詞を使ひ、ピリオドだらけの兀々《ごつ/\》した文で、句々節々の關係が、そう甘く三段論法には行つて居ない,文章はあまり分る樣に書くと、讀者は却つて要點を見のがしてしまうから、その要點に止つて暫く考へさすのが必要だ[#「文章は」〜「必要だ」に傍点]と云つてある。エメルソンは暗示的であつて、以心傳心的に僕等を刺撃するところがある。渠の暗示と刺撃とを受け取れば、もう、その形式と方便とは弊履と同樣棄てゝしまつても善いのである。
『自然論』八章――序論を合せて九章――は、僕、以前から飜譯して持つて居る位だが、自然を我に非らざるもの凡てと見て、始つて居る。非我なる自然は、その個々別々の状態に於ては粗雜なものであるので、詩人の立脚地から、全體を一つに見なければいけない。そこで、エメルソンは純全觀念[#「純全觀念」に白三角傍点]といふことを主張した。たとへば、僕
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