分らうと思ふ。主義としては、何も新らしくはない,歴史から見れば、諾册兩尊が、鶺鴒の飛び來たつてその首尾を搖がすを見て、美斗能麻具波比《みとのまぐはひ》を爲し給ひてから、何人も實行して來たものである。然し、世の道學先生、科學者輩の爲めに、その解釋と取り扱ひとが誠實と眞率とに遠ざかつて來たのも事實である。渠等は知力といふ短いはしごによつて、天上へ登らうとするのだが、到底登り切れないのだから、その天上と連絡して居る地心をも窺ふことが出來ない[#「渠等は知力といふ」〜「出來ない」に傍点]。何のことはない、精神界にあつて、消防夫の出初め見た樣なことをして居るのである。一刹那の情火が全世界を燒いて居るのを知つたら、渠等はその職を投げうつて自分等の平凡無趣味なことに驚くだらう[#「一刹那の情火が」〜「驚くだらう」に白丸傍点]。
多神教も、その原始の時代には情熱はあつたが、その死灰同前になつた偶像を耶蘇教が打破してしまつた。その耶蘇教もだ、マリヤや基督の樣な偶像があつた時代はまだ活氣があつたが、新教分派以來、段々と生命の枯れた博愛、正義、人道などいふ偶像が出來た。かういふ偶像を打破するのは、今度は、
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