時代後れになつてしまつたが、明暗とか、透明不透明とか、見える見えないとか、物質心靈とか、すべてかう云ふ兩極端を置くのは、説明の便法として、假定したものに過ぎない。生慾からして活動して居なければならない僕等には、そんな單純な假定に滿足のしようがないのである。一つの表象としては有限に見えるものも、その表象のそのまた表象となつて行くので、生きて居るのだ[#「一つの表象としては」〜「生きて居るのだ」に白丸傍点]。人は數を計へて居るばかりでも、その生命は續いて行く。然し、一刹那をまごついて、その位を忘れてしまうと、もう別な人間になつて居るのである。存在はいつも常がない、また限りのないものであるから、その間にあつて、表象が僕等の運命の杖[#「運命の杖」に白三角傍点]となつて呉れるのである。
 然し、それは盲人の杖である。僕等は目が開いては却つて一大表象としての生命が縮まる動物であつて、暗い中をその杖で以つて探つて行けばこそ、その先きへ無限の道が響いて來るので[#「僕等は目が開いては」〜「來るので」に傍点]――一たび目が開いたら、位を忘れてしまつた暗算家と同樣、もう、別な人間である。かう云ふ點から推して行くと、シヨーペンハウエルが世界の本體と假定した意志も亦表象で,それは、渠の所謂理想發現の等級を登りつめれば、その意志も亦下級の自然力と同じく盲動的で、目的があらうとも思へないからである。かうなると、哲學の用語はすべて消極的[#「哲學の用語はすべて消極的」に傍点]となつて、智識上の説明を絶してしまう。老子の無名、佛教の無我、スペンサーの不可思議、ハルトマンの無意識――盲動と云つたり、超絶と云つたりするのも、また別樣の消極である。
 井上博士は現象即實在論に『活動』といふ問題を入れられた。これは、シヨーペンハウエルの『運動』と同じく、ミルトンがその詩に於て豫想して居た星霧説、乃ち、カントやハーシエルやラプラスが種々の形を以つて發表した臆説――宇宙の中心には廻轉して居る一大勢力があるといふ――から出て來たのであらうが、尤もこれは、近世の哲學でヴントや、ジエームスや、プラグマチズム論者等も云つてるが、博士は活動その物が實在だといふのならまだ受け取れようが、活動といふのが實在の本性に最も近いとあるので――それでは、活動の解釋も消極的であつて、一向活動が出來なくならう。これは、矢張り、實在な
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