安んずるところもないし、また安んずる本體もないのである[#「天と地とは」〜「本體もないのである」に白丸傍点]。それで、僕の云ふ自然即心靈の論理的形式中に、殘つて居るものとては表象の轉換[#「表象の轉換」に白三角傍点]ばかりであるのだ。
 これは、スヰデンボルグが現象はすべて心靈の表象であると云つたり、シヨーペンハウエルが同じ現象を意志の權化であると云つたりするのとは違つて、僕の所謂表象――英語のシムボル(Symbol)――とは、一つの表象がまた他の表象であるとの意で――詩的に時空的存在を見とめられて居る宇宙は、その目的と極致とがあらうとも思はれないから、表象の奧に何かの教訓を含んでも居なければ、また一如的到達點のあるのでもない。たとへば、立ち木は佇立して居る人間で、倒れて居る人は天人の眠つて居るので、天人が羽衣をかゝげて飛んで行くのは天その物の運行で、天の目が覺めて居るのは草木の芽に萠えて出るといふ樣なわけで,表象が表象を案内して、丁度盲人が盲人を手引く樣に、時空といふ假空的暗處をめぐり廻つて居るのである[#「表象が表象を案内して」〜「居るのである」に傍点]。僕の説から云ふと、それ以上の事を附會するものは、虚僞と僞善とを宣言するわけになるので、この事は尚あとから出て來る。

 (十一) 流轉と生命

 三名の神秘家は頻りに理法といふことを説いて居るが、別に理法と云つて、心につかまへて置くべきものはなからう。そんな物を想像するから、メーテルリンクの樣に未知の理法など云つて、分らないところから一つの糸筋を引つ張つて來ようとするし、またエメルソンの樣に、理法の靈化することを云はなければならないことになるので――つまり、因果律のことを云つて居るのであらうが、これは時空といふものを假定して居る習慣から出て來るばかりのことで、未然に分らない理法があると云つたり、理法は心靈の光線であると云ふのは、僕の表象無目的説[#「表象無目的説」に白三角傍点]では、歸するところ流轉の變名[#「流轉の變名」に傍点]と見なければならない。
 流轉といふことは、神秘説にはどうしても脱しられない[#「流轉といふことは、神秘説にはどうしても脱しられない」に傍点],佛教では勿論だが、プラトーン、スヰデンボルグ、エメルソン、メーテルリンクなど、皆之を云つて居る。物靈界を流轉する遊動者は、すべて勝手氣儘に流轉
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