ぎざるものにして、消滅を免れず』と云はれたが、博士の現象即實在論にして、果して大乘佛教的であるとすれば、『現象としての精神』もそのまゝ實在して居るものであるから、滅するとは云へなからう。
 兎に角、デカートの云つた樣に、『われ考ふ、故にわれ存ず』にせよ、また『われ食ふ、故にわれ存ず』にしろ、存在して居るのは事實であるから、この事實に結びついて居る限りは、哲學者も――反對の説は立てることが出來るだらうが――僕としての立ち塲を迂闊なものだとは云へまい。たゞ僕は[#「たゞ僕は」に傍点]存在と流轉[#「存在と流轉」に白三角傍点]とを一緒に見て居るので、物が變形した時、その變形した方から云へば、初めから存在して居たのであるといふことを許さなければならない[#「とを一緒に見て居るので」〜「許さなければならない」に傍点]。それで、われなるものは、宇宙といふ大空明を遊動して居るので、宇宙その物にもなるし、また憚るところがないので、勝手次第に變形する――物質ともなり、官能ともなり、思想ともなり、理法、心靈ともなる。心靈も官能になれば、思想も犬や木にもなる。石や鐵も心靈になるのである。有形と無形、見えると見えないの區別は入らない、萬物はすべて循環して居るので、環の一部分に留まれば一部分が現じ、環の全體に觸はれば全體が現ずる[#「萬物はすべて」〜「全體が現ずる」に傍点]。然し、その全體と云つたり、一部と云ふのは、大海とその一滴との樣に、依然として違つて居るのではない,神と云へば神で完全、人と云へば人で完全、つまるところ大小の觀念を脱してからのことであるのだ。
 かう云へば、墮落した萬有神教だと攻撃するものもあらうが、別に崇拜する念を起さなければ、何も耶蘇教でいふ神と競爭するわけもないし,且、萬有神教の絶頂に登つて居るスピノーザの樣に、心と物とは一つの本體の二方面だといふ見解をも取らないから、個々別々な物の外に無限に重大な御神體があるとも思はない。存在して居るのは、たゞ時々刻々變形して居るものばかり[#「存在して居るのは、たゞ時々刻々變形して居るものばかり」に傍点]で――僕等が天を仰いで、燦爛たる星辰を見ると、何だか久遠の救ひを感じ得た樣な氣がするのは、僕等に詩的想像力があるからで――その實、星辰どころでない、天と地とは僕等の心と共に變轉流動して居るのであるから、僕等が廣いと思ふ宇宙には、
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