然し、純不純は別に論ずるまでもないので、この明鏡に映つるものは何か[#「この明鏡に映つるものは何か」に白三角傍点]といふ問題を定めて置きたい。僕は前に、完全な唯心論ならば、何も外界を否定するに及ばないと云つて置いたが、エメルソンは理法といふものを仲人《なかうど》として、自然を心靈のうちへ入れてしまつた。心靈が分らない以上は、――實際、そういふ物を格別に定めると、分るものではないから――自然の位置も矢張り判然しないのである。宗教家が見える、見えないの區別を立てゝ掛るのも、また、最も卑近な手段に過ぎない。僕から見れば、肉の目がある樣に、心にも目がある,また古の哲學者の如く、心と靈とを別なものとすれば、靈にも亦目があるに相違ない。そういふ風に考へて見ると、今、僕等が物質と見て居る物は、何もその形をいつもして居るのではない[#「僕等が物質と見て居る物は」〜「居るのではない」に傍点]、心靈の目から見れば、心靈そのものであるのだらう。從つて、神の目から云へば、神なのであらう。その神とか、心靈とかを云はないでも、一つの觀じ方[#「一つの觀じ方」に白三角傍点]が出來る――それは、何も唯物論や唯心論に住しないでも、佛教の論法の通り、物質であるなら、それも圓滿、心靈であるなら、それも圓滿,圓滿な物と圓滿な物とは、既に同一なことを意味して居るのである。
僕の現象即實在論を用ゐて見ると、自然の事物が官能になつて、官能がまた知覺になる,知覺が思想に、思想が洞察に、洞察が理法に、理法がまた心靈になるので――これは、何も、向上して行くわけではない、犬から猫、猫から蛇と流轉して行く樣に、その機その機の状態を示めしただけで、心靈はまた自然であるのだ。僕は乃ち自然即心靈[#「自然即心靈」に白三角傍点]を主張するのである。この説ぐらゐ、人間の状態を活動せしむるものはない、エメルソンの如きは、あまり達觀してしまつたので、スヰデンボルグの聖書説明と同樣、固定して行つた傾きがある。
(十) 表象の轉換――無目的
自然即心靈、物心合一説も一種の形式ではあらうが、井上博士の樣に、わざ/\客觀的實在と主觀的實在とを別ち、存在その物をこと更らに分割して説明することが出來ようか。博士は、『精神は滅とも不滅とも云ふを得べし、唯々其立脚點の如何によるのみ、吾人が個體的精神と認定するものは、其實、假現的たるに過
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