がある[#「然し」〜「觸れようとしたところがある」に白丸傍点]ので、普通の思索家から別けて見なければならない理由がある。『代表的人物』中のスヰデンボルグ論には、ソークラテース、プロチノス、ベーメ、バンヤン、フオツクス、パスカルなども、一たび神秘的恍惚の境を經たことがあつて、その一轉機には必らず[#「一たび神秘的恍惚」〜「必らず」に傍点]病的現象[#「病的現象」に白三角傍点]が伴ふ[#「が伴ふ」に傍点]ものだと云つてあるが、そういふ病態は――たとへ、學説の上だけから云つても――僕等の恐れるところではない。生命さへ握つて居れば、強盜に會つても恐れるに及ばないではないか。近世になつてからは、神秘といふ語は、どうせ智識の平凡化に反對して居る意味だから、抱月氏の所謂『智識を絶し、若しくは智識を消したる形』に、生命さへ這入つて居れば善いのである[#「近世になつてからは」〜「善いのである」に白丸傍点]。乃ち、知力の集中情化である。
 メーテルリンクは『正義の不可思議』(これは未だ僕は見ないので上田敏氏の譯による。)といふ論文に於ても、本能の威力と心中の正義衝動とを同一であるか、どうか、疑問にしてある。然し、神秘なるものがいづれ分つて來るものだとすれば、別にかれこれ云ふべき程のものではなからう。自然主義[#「自然主義」に白三角傍点]が眞直ぐに進んで行く間に、いつも神秘なるものが感じられる[#「が眞直ぐに」〜「感じられる」に傍点]のであつて、これは何も不可解を一時面白がるのではない、自然と本能との奧には、とこしなへに知力の及ばない神秘性が潜んで居るのである。僕が先きにメーテルリンクとは思想上の兄弟分だと云つたが、それは僕等の出て來たところが一つだといふ意で、飽くまでも同じ事を云つて居るといふわけではない。それは、これから説くことで分るだらうと思ふ。
 僕がこれから云はうとするのも、議論としては、どうしても知力の働きを借らなければならないが、科學と知力とばかりを手頼りとして居る人々の『明瞭』だと思ふ範圍では、まだ/\滿足が出來ないのである。これは、何も思想力が弱いとか、頭腦が不良だとか云はれるべきではない、寧ろ渠等よりも奮發して、自我の覺醒[#「自我の覺醒」に白丸傍点]に入らうとするのである。

 (九) 自然即心靈

 萬法は詮じ詰めれば多と一とになると、プラトーンも云つてあつて、ス
前へ 次へ
全81ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岩野 泡鳴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング