を造るのである。渠の考で云へば、犬の樣な所業をする人は既に犬と化して居るので、幽靈の樣な瞹眛な言葉を吐くものは既に幽靈となつて居るのだ。從つて、神を學ぶものは既に神である筈だが、これはユニテリヤンから出たエメルソンにはまだ許されようが、スヰデンボルグには古來の耶蘇教的形式があるので、そこまでは云へなかつたのだらう。然し、メーテルリンクが云つた樣に、『僕等はかうして、一度ならず、二度ならず、生れられる,而して、生れ更る毎に段々と少しは神に近づくのである』とは、スヰデンボルグも同じ意見であるだらう。
 兎に角神秘なるものを科學的に説明しようとするのは、再びスヰデンボルグの徹を踏むに過ぎない[#「兎に角神秘なるものを」〜「踏むに過ぎない」に白三角傍点]。近頃姉崎博士が頻りに之に科學的根據を與へようとつとめられる樣だが、その解釋が出來る位なら、神秘は神秘でなくなつてしまう。スヰデンボルグは、最初に神秘的本能を科學によつて滿足させようとしたが、それにはおのづから限界があつて失敗した。それで、哲學の方面ではどうかと云ふに、エメルソンの論と同樣、系統が立たない。その熱心の極度は全く宗教的となつたが、折角自由自在な表象の範圍を、ベーメと同樣、無殘にも、教會といふ形式の用具にしてしまつたのである[#「その熱心の極度は」〜「用具にしてしまつたのである」に傍点]。人物から云へば、その首を銀河に洗ひ、その足は固く地獄の床を踏んで居た大人物だが、惜しいかな、在來の宗教が仇となつて、古木の朽ちた樣に倒れてしまつたのである[#「人物から云へば」〜「倒れてしまつたのである」に白丸傍点]。
 今日歐洲でのスヰデンボルグ派の景况は知らないから云はない。米國では、ボストンなどにこの派の出版會社があつて、頻りに渠の大小の册子を出版するが、一向に振はない樣だ。日本にも横濱へ一度この派の教師が來て居たことがある。近頃米國から十年目に歸朝した友人の經驗談を云ふが、西部からボストンへ行つた時、紹介状を貰つて居たので、一人の牧師を訪問した。すると、『新教會』と看板が出て居たので、少し不思議に思つて這入つて見ると、それがスヰデンボルグ派の教會であつた。この友人は、僕がエメルソンを讀んで居た頃から、スヰデンボルグの事は知つて居たので、面白半分にその老牧師の話を聽いて居ると、例の『物に二方面がある』と開祖が云つたと云ひ出
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