生きした方だが、年取つてから自分の家の火事に會つて、急に驚いたせいか、記憶力がまるでなくなつてしまつて、詩人ロングフエローが死んだ時など、葬式の塲で、親友の死に顏を見ても、『これは親しい友人だが、その名を思ひ出すことが出來ない』と云ふ程になつてしまつた。
 僕は、十二三年以前に、二年間程、エメルソンを聖書の樣にして讀んだことがある。そうなつたには、少し譯があるのだ。それよりもまだ以前のことで、丁度、憲法發布の時期が近づいて來た頃であつた、僕は政治上にも小供の時からの野心があつたので、そう云ふ方面の書物をも讀んだ。その頃、綾井某――後に代議士にもなつた人――が開かせて居た大きな貸本屋が京橋にあつて、その店の英書目録を見ると、『ザ、レプレゼンタチブ、メン』といふのがあつた。これがエメルソンの『代表的人物』とは夢にも知らなかつたので、代議士論だと思つて、それを借りて來て讀んで見ると、ごつ/\した文で、六ケしくツて、一向分らなかつた。それで返してしまつたが、暫く經《た》つてから、當時の高等中學校に居た友人が來て、お前の書く文章は教科書中にあるエメルソンの文に似て居るぞと云つたので、先に貸本屋から借りた書の作者が確かエメルソンとあつたと思ひ出して、それからエメルソンを讀み出したのである。一日掛つて、たツた一節位が關の山――その苦心の度は、今日、僕が教へたりする學生の樂な勉強とは違つて居た。
 その頃から、僕の思想上に大變化が起つた[#「その頃から、僕の思想上に大變化が起つた」に傍点]――尤もこれは、エメルソンを讀むのは危嶮だといふ宗教家輩から云へば、渠の影響が覿面《てきめん》[#入力者注(5)]に來たのだと嘲るだらうが――早くからたゝき込まれて居た、耶蘇教の神が分らなくなつて、之を棄てゝしまつたし、また自分の愛して居た少女が理想のものでなかつたり、一親友が急に死んだりしたので、精神は非常に錯亂して來た。それに、家の關係上、文學に少しでも手を出すなら、學校生活は續けられなかつたので、某校で理財科を終つてから、政治科をやらうと思つたのを斷念して、仙臺へ行つた。政治家になりたいなどいふ考へは微塵もなくなつて、それからといふものは、專ら詩的修養をするのが自分の生命になつた[#「それからといふものは、專ら詩的修養をするのが自分の生命になつた」に傍点]が、その時は毎週の自修科目を時間に割
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