行く美は、乃ち眞理[#「眞理」に白丸傍点]である。エメルソンも亦例の眞善美合一論者で、――成る程、この三者を別々に考へれば、つまりはそう云はねばなるまい。
 それで、思考上の美と實行上の美とは、同じくないところがあると同時に、また相補つて行くので――丁度、動物が食ふ時と働く時とがあるに似て居る。心靈には美を求むる慾があつて、僕等はそれを滿足させなければならない。自然の美は人の心中に這入つてから改良せられ、たゞ乾燥無味な思考の爲めではない、一段新しい創造となるのである[#「自然の美は」〜「創造となるのである」に傍点]――美は乃ち再現せられて、藝術となるのだ。この藝術があつて、心靈の美慾は滿足するのである。かうなつて來ると、自然――乃ち、非我――の美だけでは最終のものとは云へない、更らに内部的、内存的の美に入らなければ、最大原因に達することは出來ない。
 そこで、方便の第三、言語[#「言語」に白三角傍点]を説いてある。人間の話す言語ばかりではない、エメルソンの唯心論から云へば、自然その物は思想を表はして居る言語である。それに神秘的個條[#「神秘的個條」に白丸傍点]が三つある,
 (一)[#「(一)」は底本では左右にパーレンのついた「一」] 言語は自然の事實の表象である事。
 (二)[#「(二)」は底本では左右にパーレンのついた「二」] 特殊の自然的事實は、特殊の心靈的事實の表象である事。
 (三)[#「(三)」は底本では左右にパーレンのついた「三」] 自然その物は心靈その物の表象である事。
 かういふところはスヰデンボルグに似て居る。たとへば、心の正しいとか、曲つて居るとかは、竹などの眞直ぐであつたり、くねつて居たりするのと同じで,また、胸と云つて情緒を表し、あたまと云つて思想を現はす。人間が單純な生活状態にある間は、すべて物質的、外形的の物を借りて來て、心靈的、内在的の表現をするのである。外界に見える状態は、必らず内心にもある状態で[#「外界に見える状態は、必らず内心にもある状態で」に傍点]――怒つて居る人は獅子で、狡猾な人は狐で、泰然自若として居る人は岩の樣である。小羊は無邪氣、蛇は惡意、花は微妙な愛情を示すし、また、光と闇とは智と無智とを、熱は戀を、僕等が前後の風景一幅は、僕等の記憶と希望とを反映して居る。その自然の諸事物を別々に見ないで、前にも云つた純全觀念に統
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