一してしまうと、乃ち、それが一大心靈の表象である[#「自然の諸事物を」〜「表象である」に傍点]。之を思考的に云へば、理性[#「理性」に白丸傍点]その物であるが、自然に對照しては、心靈といふ方が善い。この心靈を世俗は神と名づけて來た。
 それで、人が自分の心靈から出て來る思想に、適切な表象を結びつけるには、その人の品性が率直になつて、その觀念が純全になつて來なければならない。一たびそうなつた時には、言葉は水の流出するやうに出て來るのである。小供の時から森林の中や、大海のほとりに育つた詩人又は演説家は、その育つた時にはあまり氣に留めて居なかつた自然ではあるが、市中の喧噪な間に居ても、之を忘れて居ないので、さア一大事と來たら――たとへば、革命の起つた時など――少しもあわてることはない、泰然として居られるのは、全く自然の感化があるので――その自然の表象が、昔、朝の光に輝いた通り、今も記憶に映じて來て、目前に起つて居る事件を處分するに足るだけの思想と實行とに成るのである[#「その自然の表象が」〜「成るのである」に傍点]。天才が一たび高尚な情操を潜《くゞ》つて※[#「※」は「口へん+斗」、読みは「さけ」、329−4]び出せば、山河も鳴動する、草木も感泣する。かう云ふ力を得てから、初めて人心を制服することも出來る、また慰籍することも出來る。
 歸するところ、外界の法則と内心の作用とは一致して居る[#「外界の法則と内心の作用とは一致して居る」に傍点]ので、『二一天作《にいちてんさく》[#入力者注(5)]の五』[#入力者注(6)]は、直ちに之を倫理にも應用することが出來る。之を心中に應用すれば、その意味の範圍が廣くなつて、術語の拘束を脱するばかりのことだ。そこで、歴史にあつた事件は、必らず僕等の心にも起つて居るので――エメルソンの『歴史論』には、鼠《ねづみ》の寄り合ひを記録してないのは、歴史の本分を忘れて居るのだとまで云つてある。鼠の會議は國會の議事であつて、國會の議事はまた僕等の腦中の冥想となつて居るのである。

 (四) エメルソンの『自然論』 (下)[#「(下)」は底本では左右にパーレンのついた「下」]

 エメルソンが設けた自然に對する方便は、最下級の物品から進んで、美論となり、また言語的表象の事を論じてしまつたが、まだ第四の意義がある。
 方便の第四は、自然は教義[#「教義
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