本博士の所謂喜劇としての科白劇と悲劇としての樂劇との兩立ではない,この兩者のいづれであるにしろ、それが解脱と解决とを與へるものが喜劇[#「喜劇」に白三角傍点]であつて、全く解决のない冥想劇が悲劇[#「悲劇」に白三角傍点]である。深刻な自然主義でなければ、かういふ悲劇にあらはれて來る神秘趣味を捉へることは出來ない[#「深刻な自然主義でなければ」〜「出來ない」に白丸傍点]。ダンヌンチオやメーテルリンクの劇を見ても、用語の上から神秘を強ゆる傾向があつて、全體としては、まだ僕が思ふ樣な作劇の型とすべきものは一つもないらしい[#「ダンヌンチオや」〜「一つもないらしい」に傍点]。僕が寡聞なので、今、その他に例となる樣な善い劇を擧げることは出來ないが、小山内薫氏がジエームスヒウンカアと云ふ人の書から抄譯して、新小説に紹介せられた瑞典の劇作者ストリンドベルヒ――これは、前に論じたスヰデンボルグと同國人――の著『伯爵令孃ユリエ』を引いて見よう。(その後、僕も小山内氏から借りて、この書を讀んで見たが)、氏の紹介に基いて云ふのであるから、或は僕の方へ我田引水のところがあるかも知れない。ユリエは幽靈の樣な精神病者で、『色も香もない單調な生活に倦み果て』たあげくが、孟夏の狂熱に唆かされて、その身を『破廉耻至極な僕』のジヤンに任せた。いよ/\家を逃亡することになり、下僕は令孃にその父の金を盜ませる。令孃はまた寵愛の鳥を連れて行かうとするので、下僕は之を爼の上で殺してしまう。令孃は之を怒つて、下僕を呪ふ。そのうち、父伯爵が歸つて來たので、下僕は令孃に剃刀を與へて死ねといふ。やがてベルが鳴ると、下僕はもとの通りのジヤンになつて、令孃ユリエは自殺する。作者自身は之を『自然主義の悲劇』と稱したさうだが、この終末を以つて、人生の悲痛を解决したつもりでもなく、また觀客に解脱の念を與えられるものでもなからうから[#「この終末を以つて」〜「なからうから」に傍点]、僕はそこが氣に入つたのである[#「僕はそこが氣に入つたのである」に白丸傍点]。(その後、同人の悲劇『父』を讀んだが、同じ種類のものだ。)材料が卑近なのは、その作者の力量に由つて如何ともなる,メーテルリンクの如きも、その『日常生活の悲素』といふ論文に於て、『無限なる物の神秘的吟誦、靈と神との前兆的無言、久遠が地平線上の私語、運命即ち宿命にして、われ等が
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