、人情が段々細微になつて行くのを合點しないからで、種々の情緒がそれ/″\適切な表情法を發見して來たことを知らなければならない。人間の動作にさへリズムがあることは、精神物理學者の研究して居る問題である[#「人間の動作にさへ」〜「問題である」に傍点],まして、悲痛熱烈の靈感を傳へる悲劇が、音律の整つて居ないやうでは、それこそ再び音樂以下の藝術だと云ふ論者に好辭柄を與へることになるだらう[#「まして」〜「なるだらう」に白丸傍点]。立派に散文詩と稱するものでさへ、之を讀んで見ると、そのうちに一種云ひ難い律があるのを見ても、僕等はこの點に非常な工風を要するのである。今日の舊俳優が不用意、不整頓の七五調になづむのも善くないが、新俳優の樣に、亂雜な用語に滿足して、律語を用ゐ驍セけの奮發と勇氣とのないのは、また誡めてやらなければならない[#「今日の舊俳優が不用意」〜「やらなければならない」に傍点]。
 音律の研究は更らに進んで廣くやつて見なければ、人物の種類と作品の性質とに對して、その一定の、または種々の、または、散文的の律語を用ゐる標凖を明確に斷定することは出來ない。然し、人間の動作に律があるから、舞臺に現はれる俳優には舞踊の素養を要すると同じく、言語にも亦律が必要なことさへ推定することが出來れば[#「人間の動作に律があるから」〜「出來れば」に傍点]、その音律と動作律とが、自我無言の覺醒する無目的活動に連れて、悲痛の靈と共に發現して來るのは當前なことであらう[#「その音律と動作律とが」〜「當前なことであらう」に白丸傍点]。悲痛の熱烈な程、その律に緊張の響が生ずる[#「悲痛の熱烈な程、その律に緊張の響が生ずる」に白三角傍点]。且、その上に運命なり、性格なり、事件なりがつき添ふて來るのは、自然即心靈の意味からして、また劇の運用上からして、止むを得ないことである。僕が處女作『魂迷月中刄』を作つた頃、故櫻痴居士は之を見て、そんな慘憺な悲劇はわが國には向かない、國人の嗜好は、人物の精神は勿論、身體迄の救濟に由つて、安樂に解决する悲喜劇[#「悲喜劇」に白三角傍点]であらうと云はれたことがある。これは、『朝顏日記』や『壺坂觀音靈驗記』などを指して居られると思はれた。僕はその時から居士の教に滿足して居なかつたが、今日では、その悲喜劇とは僕のいふ喜劇の部に這入るべきものである。
 僕の考へでは、谷
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