、若し四斗樽の樣な肺を以つて居る人種が出來たら、現在の人間の平均の肺量では引けない長音を四分の一音符に定めると同樣、大天才があつたら、この刹那を根底から左右することが出來るのだ。流轉とは刹那の起滅を見たので、運命とは之が連續を觀じたのである[#「流轉とは刹那の起滅を見たので、運命とは之が連續を觀じたのである」に傍点]。この起滅と連續との間に表象的活現を爲す悲痛の靈を抽くのが、新悲劇の骨髄である[#「この起滅と連續との」〜「骨髄である」に白丸傍点]。かうなると、運命劇と稱せられるメーテルリンクの戯曲などは、たゞその一方面を描寫して居るに過ぎない。全體、運命劇なるものは、之と對峙して居る性格劇が、性格なる形式を作つて、それに立て籠ると同樣、運命なるものを何だか不可抗な力と見て、神とかエネルギーとかいふ樣な存在物と同樣な物を暗示するのであつて、いまだ徹底した作劇法に合つて居るとは云へないのは、性格劇と同じである。メーテルリンクに表はれて居る運命にでも、一種の形式臭いところがある。運命に由つて居るのは、かの暗算家が數を計へて居る間の生命であつて、大天才はたゞ一刹那を宇宙全體に擴張して示めすことが出來る[#「運命に由つて居るのは」〜「示めすことが出來る」に傍点]。運命を表示するは、その餘韻である[#「運命を表示するは、その餘韻である」に白丸傍点]。音樂と詩歌とに論なく、こゝに眞の夢幻と陶醉[#「夢幻と陶醉」に白三角傍点]とがあらはれるので――之はシルレルなどがいふ遊戯でもなければ、シヨーペンハウエルの所謂意志の臨時的絶滅でもない,悲痛自食の表象その物を見るので――悲劇には解脱とか、解决とかがない程、その實相に近いのである[#「悲劇には解脱とか」〜「近いのである」に白三角傍点]。
半獸主義から云ふと、悲愁と痛苦とを脱し得たと思ふのは、既に虚僞であると同時に、そんな事件が舞臺に出來ると滑稽な感じを起す樣になるだらう[#「半獸主義から云ふと」〜「起す樣になるだらう」に傍点]。父の亡靈と母の不義と自分の戀とに煩悶して居るハムレツトの最後が、母と叔父と自分との死に由つて消滅したと思ふのは、丁度、かの有名の喜劇的オペラ、ベートーヱ゛[#底本では「ヱ゛」は一字]ン作の『フイデリオ』に於て、フイデリオ、實はレオノラがその夫フロレスタンを奸人ヒザロの手から救ひ得て、『あゝ、云ふべからざる喜悦
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