設けて、それに固定ミイラ化するに終るのである[#「一種の虚構物を設けて、それに固定ミイラ化するに終るのである」に白丸傍点]。こんな説から、新文藝の生れないのは勿論、文藝と並行し得るだけの宗教や哲學の出來よう筈はない。若し梁川氏に藝術――氏から見て、宗教――があるとすれば、それまでに達した路筋にあるので、その到達點は、大きく云へばスヰデンボルグの枯死乾滅と同じで、全く論ずるに足りないのである。形而上學最後の大哲人とも云ふべきハルトマンは、ヘーゲルとシヨーペンハウエルとを受けて、理想と意慾なるものを設け、それを一絶對者の二方面と見爲し、意慾が理想に從つて解脱するといふことを虚構した人だが、美論にも假我と假象とを定めて、美を説明して居る。すべてこんな哲學や宗教からは、新文藝がます/\發展して行かうとするパツシヨネートソート(熱想)が出て來やう筈がない。
 この講演の原稿を清書する時、最近の帝國文學を見ると、小山鼎浦氏の論文『神秘派と夢幻派と空靈派と』に、僕を空靈派の一人[#「空靈派の一人」に白三角傍点]に數へてある。かう見られたのは、僕に取つては知己を得た樣な氣がしたが、『その神と呼び、靈と言ふもの、畢竟修辭の上の粉飾に止りて、何等實感の生氣を傳ふる者に非る也。即ち此種の作家は神秘を戀ふるが如くして、實は空靈を戀へる也、否、戀へるに非ず、只戀ふるが如く歌ひ、且語る也』と云はれたのは、鼎浦氏が宗教信者の一人であるので、矢張り神、又は、それに類する虚構物を假現せずには居られない側の人だといふことが分る。氏の數へられた他の作家のことは、今こゝに論ずる餘地はないが、僕は决して氏の所謂修辭的粉飾を弄して居るものでないことは、これまでの議論で見ても分るだらうと思ふ[#「僕は决して氏の」〜「分るだらうと思ふ」に傍点]。半獸主義は空靈主義であるから、かういふ哲理を以つて創作する作物に、神佛がないのは無責任ではない[#「半獸主義は」〜「無責任ではない」に白丸傍点]。神とか、絶對物とかを設けるに從つて、その思想は枯死して行くのを知らない人々が多い。尤も、創作上の巧拙から、僕の詩には口でいふだけの用意があらはれて居ないと云はれるのなら、それは別問題とならう。
 そこで、新文藝の起因[#「新文藝の起因」に白三角傍点]たる一數一刹那が既に神秘的なので、また樂曲の音符の樣に、その長短は比較的のもので
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