足が出來ないで、その跡へ意志絶滅の倫理觀を以つて來る前提であるから、渠の所謂音樂説では、かの別にまた神や、主義や、目的を求める論者と同樣、まだ最終無上の藝術は見えないのである[#「まだ最終無上の藝術は見えないのである」に傍点]。乃ち、渠はまだ新文藝の現出を知らなかつたのである。僕は新文藝の據つて立つべき數なるものを、直觀的だとは承知して居るが、渠並にカント輩の云ふ樣な形式だとは思はないのである。音響なり、言語なりを數の上に當て填めるところから見ると、成程、一個の純然たる形式の樣ではあるが、僕の刹那觀では、一刹那、即ち、一數より外存在して居ないのであるから[#「僕の刹那觀では」〜「居ないのであるから」に傍点]、その數は生命であつて、形式の如く他物に利用されるものではない[#「その數は生命であつて、形式の如く他物に利用されるものではない」に白丸傍点]。數その物の流轉盲動が、藝術になつて居るのである[#「數その物の流轉盲動が、藝術になつて居るのである」に白三角傍点]。
 かう云へば、諸君は印度の數論哲學と希臘のピタゴラス派の學説とを思ひ出すだらうが、渠等は僕の最も避けて居る多元説若しくば二元説に落入つて居るのだ。ピタゴラス派[#「ピタゴラス派」に傍点]は十種の對峙を立て、太一を中心として、それから生じた幾多の被造物を見とめて居る。また、かの數論哲學[#「數論哲學」に傍点]の開祖であつて、梵天の子、ビシヌの化身だと云はれる加毘羅《カビラ》[#入力者注(5)]の物心二元論は、その弟子阿羅々仙人が悉達太子の質問に答へたところで分る――愛慾を離れて第一禪の梵天に住し、推理を脱して第二禪の光音天に住し、喜樂を捨てゝ第三禪の偏淨天に住し、意樂を去つて第四禪の廣果天に住し、更らにすべて形體の不完全を排し、客觀世界を否定して最高の梵天に達すると。釋迦牟尼が之を詰難して、なほ精神、乃ち、主觀の存在するからは、その性質として附隨する客觀を絶つことは出來まいと云つたのは、當前の詰難であらう。
 たとへ一元論者[#「一元論者」に傍点]でも、こと更らに一如を觀じようとするなら、この大仙人の樣に消極的になつてしまうだらう。シヨーペンハウエルの意志斷滅論は勿論、エメルソンの唯心論、井上博士の活動以外實體存在説、近くはまた綱島梁川氏の見神實證談の如き、その意味するところを追窮してしまへば、一種の虚構物を
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