詩形を求めたら、それはソネト式の作品であらう。だから、僕の所謂『冥想劇』の最上なるものは、譬へて見れば、幾多のソネト式の臺詞を列ねて組織された戯曲であつて[#「僕の所謂」〜「戯曲であつて」に傍点]、更らに進んで『冥想悲劇』とならなければならない[#「更らに進んで」〜「ならない」に白丸傍点]。
(二十二) 新悲劇論――シヨーペンハウエルの音樂論を破す
僕の議論はあまり長くなつたので、この悲劇論を以つて終結さしてしまはう。然し、もう、今まで云つて來たことと、前段の文藝觀とで、新悲劇の本體は分つた筈であるから、こゝでは直ちに世間でよく見る、音樂に對する悲劇の誤見を破ることにかゝらう。
前にも引用した、谷本博士の論に據れば、わが國將來の國劇は、無論、科白劇と音樂劇とが兩立することになる,して前者が喜劇で、後者が悲劇である。且、博士身づからシヨーペンハウエルの主張に從つて、喜劇は人事の現象界を寫し、悲劇は世界の實相界を描くのだと説明してある。言語を用ゐる劇が現象界を寫し、音樂に由る劇が實相界を描く,なぜ、こんなことを云はれたかと云ふに、これはシヨーペンハウエルの詩歌と音樂とに關する謬見から來て居るのである。喜劇は僕の問題でない、また、博士の所謂悲劇、即ち、樂劇の二要素なる夢幻と陶醉とに關する僕の意見は、もう、前段で云つてしまつたと思ふ。
そこで、シヨーペンハウエルの美論[#「シヨーペンハウエルの美論」に傍点]を云つて見ると、諸藝術のうちで、音樂は最も勝れたものである。その理由は、單に時間的成立を許すもので、少しも空間的關係や原因結果の智識を入れない,音響その物が既に結果であるから、現象と直接の關係はない,他の美術の樣に、個體的理想を示めさないで、直ちに意志の本體を客觀化するからである。今、意志の本體を無目的とし、音響を原因のない表象とし、時間を刹那の連續として見たなら、僕の文藝觀とどこに違つたところがあらう。相違がないなら、來たらうとする新文藝には、また科白劇と樂劇との差別に由つて、悲劇の効果を論じないのである[#「來たらうとする新文藝には」〜「論じないのである」に傍点]。概念的文藝でない以上は、言語も表象であれば、音響も表象だ[#「概念的文藝でない以上は」〜「音響も表象だ」に白丸傍点]。若し概念の樣な抽象物ではなく、直觀的に世界を表出する爲め、音樂を普通言語と云
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