ふなら、同じ理由を以つて、表象的言語を普通音樂だと云へる。渠は音樂の普通的なるを證明するつもりでもあらう、一つの曲譜に種々の詩歌が當て填められることを云つて居る――これは、たとへば、わが國の長唄の樣に、その發想法が緩慢であるので、叙情句でも、叙事句でも、勝手に當て填められる節もあると、田中博士の云はれたことがある、その意味なら、もツと嚴密な發想法を用ゐれば、詩歌の應用範圍が縮まるわけだが――然し、それも、五十歩百歩の違ひであつて、詩歌の方から云へば、矢張り同じことが云へよう。苟も表象的藝術である以上は、音樂と云はず、詩歌と云はず、すべて固定の意義があり得ないのである[#「苟も表象的藝術である以上は」〜「あり得ないのである」に傍点]。宇宙の本然から來る朦朧は、乃ち、表象的藝術なる詩歌と音樂との特色であるのだ[#「宇宙の本然から」〜「特色であるのだ」に白丸傍点]。
 十年以前から象徴、即ち、表象文學の紹介者たる上田敏氏も、矢張りこの謬見に落入つて居られると見え、曾て、どこかで、藝術の妙味はまだオペラでは足りない、必らず歌辭を離れた器樂ばかりの發想でなければならないやうに云はれたことがある。新文藝の主動者の一人であらうとする氏に取つては、少し、否、大いに似つかはしくない意見ではないか。最上の感興に、言語が面倒臭いなら、音響その物も邪魔であらう[#「最上の感興に」〜「邪魔であらう」に傍点]。世界の萬事萬物の必らず歸着する無言と空靈との中から、光線の樣に發射して來る音響と言語とでないか[#「世界の萬事萬物の」〜「言語とでないか」に白丸傍点],それに抽象的概念を與へるのは、哲學者と歴史家との惡戯である[#「それに抽象的概念を」〜「惡戯である」に白三角傍点]。哲學者たるシヨーペンハウエルが、諸藝術のうち、音樂ばかりが間接的の概念に由らないと云つたのは、新詩歌と新戯曲との意義を知らなかつたからで――一つの根音から、長短、高低、強弱、異色の諸音が連續して、音律となり、旋律となつて、音調の和諧を聽かす,それが急速な時は愉快に感じ、それが遲緩な時は悲痛を覺える。然し、その音調の和諧とは、表象的用語の統一と同じ物であらう[#「然し」〜「同じ物であらう」に傍点]。
 かうなると、音樂最上藝術論者の根據とするところがたゞ一ケ條殘つて居る,言語は一國に固有されて居るが、音響は萬國の共有物だといふ
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