似て、而も神々しいところがある。この兩傑とも、熱誠を以つて國家の内部生命をたゞ一刹那に賭したので、僕の所謂威嚴も權力もそんなに偉大に發揮することが出來たのである[#「この兩傑とも」〜「出來たのである」に白丸傍点]。渠等はその熱烈な本能を滿足させる外、何物も分らなかつたのである。乃ち、盲目的神秘界の實現[#「盲目的神秘界の實現」に白三角傍点]と云つて善い。
(二十一) 刹那的文藝觀
豐太閤と云ひ、ナポレオンと云ひ、すべてかういふ風に解釋して見ると、國家の内部生命となつて居る文藝と同格であるのだ。文學と藝術とは、最も個人的、最も刹那的のものであつて、刻々盲轉する表象的神秘界を出來るだけ偉大に、また出來るだけ深遠に活現したものでなければならない[#「文學と藝術とは」〜「活現したものでなければならない」に白丸傍点]。文藝の本旨[#「文藝の本旨」に白三角傍点]は、豐公奈翁の行き方と等しく、刹那の起滅を爭ふ悲痛の靈を活躍さすにあるのだ。云ひ換へれば、自我を食ふ心靈の活躍さへ出來れば、もう、その上に目的とか、主義とか、寓意とか、慰藉とか、人格とかがあつてはならない[#「自我を食ふ心靈の」〜「あつてはならない」に傍点]。かういふ僞物を備へなければならない文藝は、わざ/\自分の品位を下だして、或世俗的思想と觀念との奴隷になつて居るのである。
神秘界の表象には、今まで云つて來たので分る通り目的はない、從つて主義や寓意やのあるべき筈もない。天才[#「天才」に白三角傍点]は自分の餌ばとする悲痛の活動を直寫するものである[#「は自分の餌ばとする悲痛の活動を直寫するものである」に白丸傍点]。自然即心靈だから、僕の表象的刹那觀は即ち寫實主義である[#「自然即心靈だから、僕の表象的刹那觀は即ち寫實主義である」に傍点],而も、それがまた一刹那に覺醒した宇宙を寫實するのであるから、犬才ならば犬才だけの境界、蛇才ならば蛇才だけの範圍に短縮してしまう。之が爲めに寓意を用ゐたり、主義を入れたり、目的を與へたりしなければならなくなるのだ。もう、世の概念又は觀念その物を活物かと思ひ違へて歌ふ樣なものになつては、在來の短歌が花鳥風月を花鳥風月と詠んだり、タムソンの英詩が自然を官能的に樂んだりしたと同樣、如何に文句が巧みで、如何に言ひ廻しが上手であつても、かの寓意詩や主義小説よりも更らに墮落したものと云は
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