なければならない。流轉的刹那の興味は[#「流轉的刹那の興味は」に傍点]、直觀を以つて捕捉しなければならない[#「直觀を以つて捕捉しなければならない」に白三角傍点]。僕等は大天才を待たずには居られないのである。
戰爭や戀愛の塲合には、まだ非我なる物を見とめる餘裕があつたが[#「戰爭や戀愛の塲合には、まだ非我なる物を見とめる餘裕があつたが」に傍点]、文藝は全く一刹那一存在の自食的表象である[#「文藝は全く一刹那一存在の自食的表象である」に白丸傍点],云ひ換へれば、天才が自分の天才を食ふ活動であるので――大天才の産物には、刹那的流轉を悲しむ大宇宙が現じないでは居られないのだ。乃ち、情的實行の最幽最妙のところ[#「情的實行の最幽最妙のところ」に白三角傍点]であらう。谷本博士は『國劇の將來如何』(帝國文學)に於て、ニーチエの主張に從ひ、藝術――特に樂劇――の極致は陶醉にあると云はれた。これは、一方に小我的夢幻性を立てたので、之に對して忘我的醉郷を設けられたのである。登張竹風氏の『藝術の二元論』(讀賣新聞)の一節をして、博士の立論を破らしめるなら『人心の奧底に潜める一切の悲哀、恐怖、欝憂等は、遺憾なく醉中に現ずるものだ』。舊來の哲學者と同樣、如何に大我小我の別を立てたとて、忘我の境界は虚構に過ぎない――若しあるとすれば、滅しない宇宙が滅した時のことであらう。夢中にも我は現ずる、醉中にも我は見える。シヨーペンハウエルもこの我即ち意志の臨時的滅却――乃ち、意志の客觀化――を以つて、文藝の與へる慰藉としたが,僕の半獸主義は忘我とか、意志の滅却とかは斷然否定するのであるから[#「僕の半獸主義は」〜「否定するのであるから」に傍点]、若し文藝に慰藉を求むべきものとすれば、どうせ慰藉と快樂とは得らるべきものでないから、いツそ、もツと盲動瞬轉するが善いと感奮させるところにあるのである[#「若し文藝に」〜「あるのである」に白丸傍点]。シルレルなどの樣に、文藝を解釋するに、人間の遊戯性を以つて來るのは、僕とは正反對である。この瞬間には、大自然の活動がそのまゝ無意味にあらはれるのであるから、諸氏の云はれた如く、夢の樣で、幻の樣で、また陶然として醉つて居る樣で――これが、エメルソンの悲的樂觀や、ニーチエの所謂悲莊的自悦が、暗示して居る境域であらう。こゝへ來ると、もう[#「こゝへ來ると、もう」に傍点]
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