點を餘程神秘的に解釋すべきものだと思ふのである。
 婦人は平常無邪氣なことは小供と同前で、小供が菓子を貰つて之を相手に見せびらかす時と同じく、男子が自分に對して肉情を動かして呉れるのを喜ぶのが自然である。男子はまた或程度まで好き嫌ひの點を淘汰して、婦人の自然を迎へると、それで抱擁が出來る、また結婚が出來る。然し、結婚なるものは社會的制度であつて、法律同樣、自分の意に反して居ても、止むを得ず遵奉すべきだけで、結婚は戀愛の結果である時もあるが、全く戀愛その物とは問題が違ふ[#「結婚は戀愛の結果で」〜「問題が違ふ」に白丸傍点]。戀愛の極度は抱擁である[#「戀愛の極度は抱擁である」に白三角傍点]。西藏《チベツト》[#入力者注(5)]教の秘密神像には、交合を實現して居るのがある、またわが國でも、聖天の樣な教へには之を主として居るさうだ。日本の神代では、これが非常に開放的であつて、あまり耻ぢるところがなかつたのか、かの丹塗り矢の話で出來た神、富登多々良伊須々岐比賣《ほとたゝらいすゝぎひめ》ノ[#「ノ」は小書き]命の如きは、婦人の局部を名にまでつけられて居る。(尤もこれは、物ごゝろがついてから、耻かしくなつたのであらう、比賣多々良伊須氣余理比賣《ひめたゝらいすけよりひめ》と改名して貰つたらしい。)それで、抱擁といふことは、决して生物學者のいふ樣に、種族の種を繁殖さすのが目的でない[#「それで」〜「目的でない」に傍点]。然し、流轉の一轉機に生じた意志なる表象と表象とが、一時自他の區別を見とめ、宇宙の活動を二つに分離するので、そこだけの缺陷が出來るから、互ひに相滿たさうとして[#「然し」〜「相滿たさうとして」に白丸傍点]、たゞさへ飢渇的な蛇と蛇とが喰ひ合ひを初めるのである[#「たゞさへ飢渇的な蛇と蛇とが喰ひ合ひを初めるのである」に白三角傍点]。
 たゞ本能に滿足を與へれば、それで別なものになつてしまうのである。こんな塲合に同情のあらう筈はない、憐愍のあらう筈がない、また尊敬のあらう筈はない。だから、プラトーンが婦人共有を主張したのは尤もである,然し、メーテルリンクが、女であつたら男子論を書いて同じ樣なことをいふと同樣、婦人から云はせれば、男子共有論を出すのが當前である。エメルソンは結婚によつて戀愛の接續的功果があるやうに説いたが、これはほんの世間觀に止まるのであつて、スヰデンボルグと
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