な石が山にべッたりと廣がつて屹立して、その周圍もみなこうえふだ。
 そのけはしいやま裾を左りへ曲つたところに、直ぐ退馬橋《たいまばし》がかかつて、川添ひ道が走つてゐる。然し、橋からまた直ぐのところに横へ左りに渡る橋があつて、そのさきは植竹氏私有の公園だと車夫は説明した。そこにも樹の葉の色に照つてるのが望める。植竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をやつてたこともあつて、僕も直接知らないでもないのだから、この公園の名も多少の親しみがあつた。それをながめながら、川のこなたを進んだ。
「植竹さんだッて、縣下一等の金滿家としても百萬圓はありますまい。それに、内田信也と云ふ人はただ栃木縣に生まれたと云ふばかりで高等學校建設の爲めに百萬圓を寄附したと云ふのですから、土地のものは皆呆れたほど驚いてをります」と云つた宿の主人の言葉を思ひ出しながら。
 退馬橋から三四丁來たところに、鹽釜と云ふ宿場があつて、そこの鹽原郵便局で人間社宛ての原稿の書き留め郵便を出した。また二三丁で(この邊はさう人の目に見えないでのぼり道になつてるが)福渡りの宿々の内湯へ引いた湯の出もとのあるところへ來た。この邊の川ぶちから見返
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