前のではないかも知れぬが、高い松が一つあつて、左右のこうえふを拔いてゐる。その松や別莊は丁度、恰も赤い山の樹木とつらなつてそのふもとにあるやうに見える。その少しさき(來た道の方)に鳥居戸《とりゐど》山のこれも赤、黄こきまぜのこうえふが見えて、その裾に陛下の御用邸がある。(今上陛下は鹽原をおきらひだとか云ふことで、日光へばかりお行きだけれども、皇太子殿下はよくここへ來られる。)兎に角、この室から四方をながめると、靜かなもので、火鉢の湯のたぎつてる音がしてゐるあひだに、川の音が始終遠く、そして時々自動車や馬車の發着の響きが松や檜葉や赤い實ばかりになつてる柿の木やの樹かげから、聞えるばかりだ。
「僕のやうな商賣のものがこの宿へ來たことがありますか」
と、主人に聽いて見ると、
「大町さんと云ふお方が暫らく御滯在のことがございました」との答へであつた。同伴者――と言へば、田中君や松本君だらうが――二三名と來て、大分に酒の飮めるのを見せたらしい。餘ほど驚いてたやうすであつたので、僕は、
「今ぢやア、もう、あの人も全くの禁酒をしてゐます」と知らせてやつたら、これにも主人は不思議な顏つきをした。はた折
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