ステアン》である。而も世の所謂それらの人人はそれが佛陀の歸依者に對してよりどんなに異つてゐるか。それはそれとして此等の詩の中には神神[#「神神」に傍点]とか人間の神[#「人間の神」に傍点]とかいふ字句がある。神神[#「神神」に傍点]と言ふ場合にはそれは神學上の神神ではなく、單に古代ギリシヤあたりの神話を漠然とおもつて貰はう。また人間の神[#「人間の神」に傍点]とあればそれは無形の神が禮拜の對象として人格化《パアソニフワイ》されるやうに、これは正にその反對である。其他これに準ず。
最後に詩論家及び讀者よ。
此の人間はねらつてゐる。光明思慕の一念がねらつてゐるのだ。ひつつかんだとおもつたときは概念を手にする。これからだ。これからだ。何時もこれからだとは言へ、理智のつぎはぎ、感情のこねくり、そんなものには目もくれないのだ。捕鯨者は鰯やひらめ[#「ひらめ」に傍点]にどう値するか。
……何といふ「生」の嚴肅な發生であらう。此の發生に赫耀《かがやき》あれ!
※[#ローマ数字1、1−13−21]
穀物の種子
と或る町の
街角で
戸板の上に穀物の種子《たね》をならべて賣つてゐる
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