ことを
生けるもののくるしみを
そして燕のきたことを
いつのまにかもうすやすやと眠つてゐる子ども
妻はその子どものきものを縫ひながら
だんだん雨が強くなるので
播いた種子が土から飛びだしはすまいかと
うすぐらい電燈の下で
自分と一しよに心配してゐる

  麥畑

此のみどり
ああ此のみどり
生命《いのち》の色!
憂鬱なむぎばたけのうつくしさ
むぎばたけをみてゐると
自分にせまる人間の情慾
此の力のかたまり
人間の強い眞實
これこそ深いところから
浪浪のうねりをもつて湧き上つてくる力だ
そして生生《なまなま》しい土の愛により
どんなに大きな健康を麥ぐさはかんじてゐることか
ああ此の麥ぐさの列
ああ、けふばかりは蒼天《そら》も自分にふさはしく
どこかで雲雀もないてゐる
ああ此のみどり
此の麥のみどりに手を浸して
自分はなみだぐんでゐる

  朝

雨戸をがらり引きあけると
どつとそこへ躍りこんだのは日光だ
お! まぶしい
頭蓋《あたま》をがんと一つくらしつけられでもしたやうに
それでわたしの目はくらみ
わたしはそこに直立した
おお
けれど私のきつぱりした朝の目覺めを
どんなに外でまつてゐたのか
此の激烈な日光は!
やがておづおづと痛い目をほそく漸くみひらいて
わたしはみた
わたしはみた
そこに
すばらしい大きな日を
からりとはれた
すべてがちからにみちみちた
あたらしい一日のはじめを

  人間苦

何方をむいてみても
ひどく人間はくるしんでゐる
ああ人間ばかりは
人間ばかりか
人間なればこそ自分もこんなにくるしんでゐるのだ
すばらしい都會の大通でも
此の汎いあをあをとした穀物畠ででも
みんな一緒だ
だれもかれもみんなくるしんでゐるのだ
けれどみんなのくるしみをみると
自分はいよいよくるしくなる
みんなといつしよにくるしむのだ
みんなといつしよにくるしむとは言へ
自分等はひとりびとりだ
ひとりを尊べ!
何と言つてもくるしむのだ
自分はひとりでくるしまう
みんなのかはりにくるしまう
一切のくるしみをみな此の肩にのせかけろ
人人よ
そして身も輕輕と自由であれ
空の鳥のやうであれ
萬人を一人で
自分はみんなの幸福のために生きよう
自分はみんなのくるしみに生きよう
かうおもつてみあげた大空
此の滴るやうな深い碧《あを》さ
此のすばらしさ
自分はかくも言ひ知れぬ鋭さにおいて感ずる
人間の激しい意志を
いまこそ強い大地の力を

  わたしたちの小さな畑のこと

すこし強い雨でもふりだすと
雀らにかくしてかけた土の下から
種子《たね》はすぐにもとびだしさうであつた
私達はそれをどんなに心配したか
そしてその種子をどんなに愛してゐたことか
それがいつのまにやら
地面の中でしつかりと根をはり
青空をめがけて可愛いい芽をふき
かうして庭の隅つこの小さな畑ででも
其の芽がだんだん莖となり葉となりました
それらの中の或るものなどは
たちまちながくするすると
人間ならば手のやうな蔓さへ伸ばしはじめた
それではじめて隱元豆だとしれました
昨日《きのふ》夕方榾木をそれに立ててやつたら
今朝《けさ》はもう、さもうれしさうにどれにもこれにもからみついてゐるではありませんか
此の外に、蜀黍《たうもろこし》と胡瓜《きうり》と
數種の秋のはなぐさがあります
どれもこれも此の小さな畑のなかで滿足しきつてそだつてゐます
そしてそれらの上に太陽は光をかけ
太陽のひかりは小さな畑から
あたり一めんにあふれてをります

  一日のはじめに於て

みろ
太陽はいま世界のはてから上るところだ
此の朝霧の街と家家
此の朝あけの鋭い光線
まづ木木の梢のてつぺんからして
新鮮な意識をあたへる
みづみづしい空よ
からすがなき
すずめがなき
ひとびとはかつきりと目ざめ
おきいで
そして言ふ
お早う
お早うと
よろこびと力に滿ちてはつきりと
おお此の言葉は生きてゐる!
何といふ美しいことば[#「ことば」に傍点]であらう
此の言葉の中に人間の純《きよ》さはいまも殘つてゐる
此の言葉より人間の一日ははじまる

  自分達の仕事

自分達の仕事
それは一つの巣をつくるやうなものだ
此の空中にたかく
どんな強風にも落ちないやうな巣をつくれ
そして大地にふかぶかと根ざした木木
その木の梢のてつぺんで
卵を孵へさうとしてゐる鳥は
いまああしてせはしく働いてゐる
毎日毎日
朝から夕まで
あちらの都會の街上で女の髮毛《かみげ》を拾つたり
こちらの村の百姓の藁を一本盜んだり
ああ自分達もあの鳥とおなじだ
けれど鳥にはあのやうな翼がある
自分達には何があるか
ああ

  消息

はつなつの木木の梢をわたる風だ
穀物畠の畝からぬけでてきた風だ
わたしらの屋根の上を
それはまるで遠くできく海の音のやうだ
その下にわたし
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