らみればなにもかもがらりとかはつた
だがいつみてもいいのは
此のひろびろとした大空だけだぞい
わすれもしねえ
この大空にまん圓い月がでると
穀倉のうしろの暗い物蔭で
俺等《おいら》はたのしい逢引をしたもんだ
そこで汝《われ》あみごもつたんだ
何をかくすべえ
穀倉がどんな事でも知つてらあ
さうして草も燒けるやうな炎天の麥畑で
われあ生み落とされたんだ
それもこれもみんな天道樣がご承知の上のこつた
おいらはいつもかうして貧乏だが
われは秣草《まぐさ》をうんと喰らつた犢牛《こうし》のやうに肥え太つてけつかる
犢牛のやうに強くなるこつた
うちの媼《ばばあ》もまだほんの尼つちよだつた
その抱き馴れねえ膝の上で
われあよく寢くさつた
それをみるのが俺等《おいら》はどんなにうれしかつたか
そして目がさめせえすれば
山犬のやうに吼えたてたもんだ
其處にはわれが目のさめるのを色色《いろん》な玩具《おもちや》がまつてただ
なんだとわれあおもふ
そこのその大きな鍬だ
それから納屋にあるあの犁と
壁に懸つてゐるあの大鎌だ
さあこれからは汝《われ》の番だ
おいらが先祖代代のこの荒れた畑地を
われあそのいろんなおもちやで
立派に耕作《つく》つてくらさねばなんねえ
われあ大《でけ》え男になつた
そこらの尼つ子がふりけえつてみるほどいい若衆《わけえしゆ》になつた
おいらはそれを思ふとうれしくてなんねえ
しつかりやつてくれよ
もうおいらの役はすつかりすんだやうなもんだが
おいらはおいらの蒔きつけた種子《たね》がどんなに芽ぶくか
それが唯《たつた》一つの氣がかりだ
それをみてからだ
それをみねえうちは誰がなんと言はうと
決して此の目をつぶるもんでねえだ

  よい日の詩

どこをみても木木の芽は赤らみ
すつかり赤らみ
枯葉の下から草も青青と
そしてしつとり濡れた木の下枝では
どこからともなく集つてきた鶸やのじこ[#「のじこ」に傍点]が囀つてゐる
何といふ善い日であらう
友達の花嫁のまめまめしい働きぶりをみてきた私の目のかわゆらしさよ
何がそんなにうれしいのか
お太陽樣《てんたうさま》もみていらつしやる通り
此の山みちで
私はすこし醉つてをります

  朝朝のスープ

其頃の自分はよほど衰弱してゐた
なにをするのも物倦く
なにをしてもたのしくなく
家の内の日日に重苦しい空氣は子どもの顏色をまで憂鬱にしてきた
何時もの貧しい食卓に
或る朝、珍しいスープがでた
それをはこぶ妻の手もとは震へてゐたが
その朝を自分はわすれない
その日は朝から空もからりと晴れ
匙まで銀色にあたらしく
その匙ですくはれる小さい脂肪の粒粒は生きてきらきら光つてゐた
それを啜るのである
それを啜らうと瀬戸皿に手をかけて
窶れてゐる妻をみあげた
其處に妻は自分を見まもつてゐた
目と目とが何か語つた
そして傍にさみしさうに座つてゐる子どもの上に
言ひあはせたやうな視線を落した
其の時である
自分は曾て自分の經驗したことのない
大きな強いなにかの此身に沁みわたるのを感じた
終日、地上の萬物を温めてゐた太陽が山のかなたにはいつて
空が夕燒で赤くなると
妻はまた祈願でもこめに行くやうなうしろすがたをして街にでかけた
食卓にはさうして朝毎にスープが上《のぼ》つた
自分は日に日に伸びるともなく伸びるやうな草木の健康を
妻と子どもと朝朝のスープの愛によつて取り返した
長い冬の日もすぎさつて
家の内はふたたび青青とした野のやうに明るく
子どもは雲雀《ひばり》のやうに囀りはじめた

  或る時

よろこびはまづ葱や菜つぱの搖れるところからはじまつて
これから……

 ※[#ローマ数字3、1−13−23]


  其處に何がある

足もとの地面を見つめてかんがへてばかりゐる人間の腰ははやく彎曲《まが》る
いたづらに嘆き悲しんではならない
兄弟よ
あたまの上には何があるか
樹木のやうに眞直《まつすぐ》立て
そして垂れた頭をふりあげて高く見上げろ
其處に何がある
この大きな青空はどうだ
人間はこの青空をわすれてゐるのだ
兄弟よ
この大きな青空はどうだ

  憂鬱な大起重機の詩

ぐつと空中に突きだした
腕《うで》だと思へ
いま大起重機は動いた
重い大きなまつ黒いものをひつ掴んで
それを輕輕と地面から空中へひき上げた
微風すらない
此の靜謐をなんと言はうか
怖しいやうな日和だ
蟻のやうに小さく
大きな重いものの取去られたところに群がつて
うようよ蠢動《うごめ》いてゐる人人
大起重機のたしかな力をみろ
その大浪のやうな運動を
その大きな沈默を
ああ大起重機の憂鬱!
ああ大起重機の怪物!
此の不可思議な怪力に信頼しろ
それの動いて行く方向をみつめて大空を仰いでゐる人人
それを据附けたのは何ものだ
それをこしらへたのはどの手だ

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