然し情熱のないゴツホである。氏にはたくさんの子供をその妻女に生みださせる事は出来ても、剃刀を取つて友人の耳を切り落したり、ピストルをもつて自殺したりするゴツホは狂人であらう。それを反対にゴツホをして氏を言はしむれば何と評するであらうか。
 自然といふ言葉がいくたびか氏の唇からしめやかに洩れた。然しその自然は人間あつての自然の自然ではないやうであつた。自分の原始へ還るべき説にも氏は首肯してくれた。氏の自然と自分の原始とは似たやうであつて、それでゐて決しておなじ内容をもたぬ非常に差異のあるものかも知れぬ。
 自然あつての人間ではない。人間あつての自然である、これを概念的に考へては不合理である。余儀なくばさうであつてもよい。とにかく自然はどうして人間に存在するのか。それすら解ればそれでよいのである。
 折角、よい所まで行つてゐて、しかもそのものを握つてゐないとしたら不幸此上もあるまい。それが証左は、感興には開く心を思想に鎖すことになる。自分は、真の画家は感興家でなくつてよいと思ふ、然し思想者であらねばならぬ。感興は生命の淡い気まぐれな噴水であり、思想は生命のふかく湛へたる淵である。生命の前に
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