#「けち」に傍点]な風《かぜ》だらう。吹《ふ》くなら吹《ふ》くらしくふけばいいんだ。此《こ》の暑《あつ》いのに。みてくんな、此《こ》の汗《あせ》を。どうだいまるで流《なが》れるやうだ」
 風鈴《ふうりん》がねぼけたやうにちりりん[#「ちりりん」に傍点]と、そのとき搖《ゆ》れました。
「ほんとにねえ。これぢや、いい風《かぜ》ですとも言《ゆ》はれませんよ。まつたく」
 ちらとそれをきいて風《かぜ》は憤《むつ》としました。「此《こ》の意氣地《いくぢ》なしども! そんなら一昨年《おととし》の二百十|日《か》のやうに、また一と泡《あわ》吹《ふ》かしてくれやうか」と怒鳴《どな》りつけやうとは思《おも》つたが、何《なに》をいふにも相手《あひて》はたか[#「たか」に傍点]のしれた人間《にんげん》だとおもひ直《なほ》して、だまつて大股《おほまた》に、あとをも見《み》ず、廣々《ひろ/″\》とした野山《のやま》の方《はう》へ行《い》つてしまひました。


 馬

 こげつくやうな熱《あつ》い日《ひ》でした。
 村《むら》の酒屋《さかや》の店前《みせさき》までくると、馬方《うまかた》は馬《うま》をとめました。いつものやうに、そしてにこにことそこに入《はい》り、どつかりと腰《こし》を下《をろ》して冷酒[#「冷酒」は底本では「冷配」と誤記]《ひやざけ》の大《おほ》きな杯《こつぷ》を甘味《うま》さうに傾《かたむ》けはじめました。一|杯《ぱい》一|杯《ぱい》また一|杯《ぱい》。これから腹《はら》がだぶだぶになるまで呑《の》むのです。[#「呑むのです。」は底本では「呑むのです」と誤記]そして眠《ねむ》くなると、虹《にじ》でも吐《は》くやうなをくび[#「をくび」に傍点]を一つして、ごろりと横《よこ》になるのです。と雷《かみなり》のやうな鼾《いびき》です。
 荷馬車《にばしや》は重《をも》い。山《やま》のやうな荷物《にもつ》です。
 この炎天《えんてん》にさらされて、行《ゆ》くこともならず、還《かへ》りもされず、むなしく、馬《うま》はのんだくれ[#「のんだくれ」に傍点]の何時《いつ》だか知《し》れない眼覺《めざ》めをまつて尻尾《しつぽ》で虻《あぶ》や蠅《はひ》とたわむれながら、考《かんが》へました。かんがへるとしみじみ悲《かな》しくなりました。
「なんといふ一|生《しやう》だらう。こうして荷馬車《にばしゃ》を朝《あさ》から晩《ばん》まで輓《ひ》くために、私《わたし》の親《おや》は私《わたし》をうんだのでもなからうに。自分《じぶん》の子《こ》がこんな目《め》に遇《あ》つてゐるのをみたら、人間《にんげん》ならなんと云《い》ふだらう」
 馬《うま》はこのまんま、消《き》えるやうに死《し》にたいと思《おも》ひました。死《し》んで、そして何處《どこ》かで、びつくりして自分《じぶん》に泣《な》いてわびる無情《むじやう》な主人《しゅじん》がみてやりたいと思《おも》ひました。
 けれど直《す》ぐまた思《おも》ひなほしました。
「お互《たがひ》に、明日《あす》の生命《いのち》もしれない、はかない生《い》き物《もの》なんだ。何《なん》でも出來《でき》るうちに爲《す》る方《はう》がいいし、また、やらせることだ」と。


 蚊

 蚊《か》が一ぴきある晩《ばん》、蚊帳《かや》の中《なか》にまぐれこみました。みんな寢靜《ねしづ》まると
「どうだい、これは、自分《じぶん》はまあ何《なん》といふ幸福者《しあはせもの》だらう。こんやは、それこそ思《おも》ふ存分《ぞんぶん》、腹《はら》一|杯《ぱい》うまい生血《いきち》にありつける譯《わけ》だ」
 そして外《そと》の友《とも》だちに囁《ささや》いた。
「うらやましからう。だが、これは天祐《てんゆう》といふもので、いくら自分《じぶん》が君達《きみたち》をいれてあげやうとしたところで駄目《だめ》なんだ」
 そこには可愛《かあい》らしい肉附《にくづき》の、むつちり肥《ふと》つたあかんぼ[#「あかんぼ」に傍点]が母親《はゝおや》に抱《だ》かれて、すやすやと眠《ねむ》つてゐました。その頬《ほ》つぺたに蚊《か》が吸《す》ひつくと、あかんぼ[#「あかんぼ」に傍点]は目《め》をさまして泣《な》きだしました。と、ぱちツ! 手《て》で打《う》つ大《おほ》きな音《をと》がしました。[#「しました。」は原文では「しました、」と誤記、136−2]
 ぷうんと蚊《か》は、やつと逃《に》げるには逃《に》げたが、もう此《こ》の狭《せま》い蚊帳《かや》の中《なか》がおそろしくつて、おそろしくつてたまらなくなりました。
 その時《とき》、電燈《でんとう》の笠《かさ》にとまつてゐた黄金蟲《こがねむし》が豫言者《よげんしや》らしい口調《くちやう》で、こんなことを言《い》ひました。
「馬鹿《ばか》な奴《やつ》らだ。もう秋風《あきかぜ》も立《た》つたじやないか、飢《う》ゑるも飽《あ》くも、それがどうした。運命《うんめい》はみんな一つだ」


 蚤

 一ぴきの蚤《のみ》が眞蒼《まつさを》になつて、疊《たゝ》の敷合《しきあは》せの、ごみの中《なか》へ逃《に》げこみました。そしてぱつたりとそこへ倒《たふ》れました。
 晝寢《ひるね》をしてゐた友《とも》だちはびつくりして
「おい、どうしたんだい」と、その周圍《まはり》に集《あつま》りました。「またか。晝稼《ひるかせ》ぎになんかに出《で》るからさ。しつかりしろ、しつかりしろ」
 その中《なか》で年嵩《としかさ》らしいのが
「でもまあ無事《ぶじ》でよかつた。人間《にんげん》め! もうどれほど俺達《おれたち》の仲間《なかま》を殺《ころ》しやがつたか。これを不倶戴天《ふぐたいてん》の敵《てき》とゆはねえで、何《なに》を言《ゆ》ふんだ。此《こ》の世《よ》はおろか、此《こ》のかたき[#「かたき」に傍点]は、生《うま》れかはつて打《う》たなけりやならねえ」
 すると他《ほか》のが
「生れかはるつて、何《なに》にさ」
「人間《にんげん》によ」
「そんなら人間《にんげん》は」
「きまつてるじやねえか、蚤《のみ》さ」
 その時《とき》、女《をんな》の聲《こゑ》
「ちえツ、いまいましいつたらありやしない。また。捕逃《とりに》がしてよ。あなたがぼんやりしてゐるんだもの」
 やがて呼吸《いき》をふき返《か》へしたその蚤《のみ》
「おお、すんでのところ。小《ちつ》ぽけでも、たつた一つきやねえ生命《いのち》だ。危《あぶな》い。あぶない」


 蝉は言ふ

 富豪《ものもち》の家《いへ》では蟲干《むしぼし》で、大《おほ》きな邸宅《やしき》はどの部屋《へや》も一ぱい、それが庭《には》まであふれだして緑《みどり》の木木《きゞ》の間《あひだ》には色樣々《いろさま/″\》の高價《かうか》なきもの[#「きもの」に傍点]が匂《にほ》ひかがやいてゐました。
 その中《なか》でもとりわけ立派《りつぱ》な總縫模樣《そうぬいもやう》の晴着《はれぎ》がちらと、塀《へい》の隙《すき》から、貧乏《びんぼう》な隣家《となり》のうらに干《ほ》してある洗晒《あらひざら》しの、ところどころあてつぎ[#「あてつぎ」に傍点]などもある單衣《ひとへもの》をみて
「みな樣《さま》、まあご覧《らん》遊《あそ》ばせ、あれを。あれでも着物《きもの》と申《まを》すのでせうか。あれと私達《わたしたち》とは何《なん》の關係《くわんけい》も無《な》いやうなものの、あれも着物《きもの》、私達《わたしたち》お互《たがひ》も着物《きもの》、何《なん》となく世間《せけん》に對《たい》して、私《わたし》は氣耻《きはづか》しいやうでなりませんのよ」
「何《なん》だと」それを聽《き》かれたから、たまりません
「も一ぺんほざいて見《み》ろ。そのままにやしておかねえぞ、此《こ》の虚榮《きよえい》の塊《かたまり》め! 貧乏《びんぼう》がどうしたつてんだ。こうみえてもまだ貴樣等《きさまら》の臺所《だいどころ》の土間《どま》におすはりして、おあまりを頂戴《ちやうだい》したこたあ、唯《たゞ》の一どだつてねえんだ。餘《あんま》り大《おほ》きな口《くち》を叩《たゝ》きあがると、おい、暗《くれ》え晩《ばん》はきをつけろよ」
 これはまた落雷《らくらい》のやうな聲《こゑ》でした。さつきから啼《な》くのをやめて、どんなことになるかとはらはらしながらきいてゐた蝉《せみ》の哲學者《てつがくしや》、附近《あたり》がもとの靜穩《しづかさ》にかへると
「どうも此《こ》の喧嘩《けんくわ》は解《わか》らない。晴着《はれぎ》は晴着《はれぎ》でよいではないか。また、單衣《ひとへもの》は單衣《ひとへもの》でよいではないか。晴着《はれぎ》は晴着《はれぎ》。單衣《ひとへもの》は單衣《ひとへもの》。晴着《はれぎ》がいくら立派《りつぱ》でも單衣《ひとへもの》の役《やく》には立《た》たない。單衣《ひとへもの》もそうだ。晴着《はれぎ》の場所《ばしよ》へは向《む》かない。これは彼《かれ》を蔑《さげす》み、彼《かれ》はこれを憤《いきどほ》る。こんなことが、一|體《たい》あつてよいものか」
 そして最後《さいご》につくづく感服《かんぷく》したらしくつけ加《くは》へました。
「“Know[#「Know」は底本では「Knaw」と誤記] thyself”(汝《なんぢ》自身《じしん》を知《し》れ)とは、まことに千|古《こ》の金言《きんげん》だ」


 耳を切つた兎

 山《やま》の兎《うさぎ》がふもとの村《むら》のお祭《まつ》りにでかけました。おしやれな娘兎《むすめうさぎ》のこととて、でかけるまでには谿川《たにがは》へ下《を》りて顏《かほ》をながめたり、からだ中《ぢう》の毛《け》を一|本《ぽん》一|本《ぽん》、綺麗《きれい》に草《くさ》で撫《な》でつけたり、稍《やゝ》、半日《はんにち》もかかりました。
「何《なん》てまあ、いい毛《け》だらう」と、それを第《だい》一に見《み》つけた猫《ねこ》が羨《うらや》ましさうに、まづ賞《ほ》めました。犬《いぬ》も狐《きつね》も野鼠《のねづみ》も、みな
「ほんとにねえ」と同意《どうい》しました。
 兎《うさぎ》はうれしくつてたまりませんでした。すると猫《ねこ》がまた
「けれど、どうも耳《みゝ》が長過《ながす》ぎるね」と、つくづくみてゐて批評《ひひやう》しました。
 それをきくと
「ほんとに、そう言《ゆ》はれてみると、そうだ」一|同《どう》は口《くち》を揃《そろ》えていひました。
 兎《うさぎ》は、はつと思《おも》ひました。そしてみんなの耳《みゝ》をみました。それから自分《じぶん》のを手《て》で觸《さは》つてみました。なるほど長《なが》い!
 そこで早速《さつそく》、理髪店《とこや》に行《い》つてその耳《みゝ》を根元《ねもと》からぷつりと切《き》つて貰《もら》ひました。おもてへ出《で》ると指《ゆびさ》して、逢《あ》ふもの毎《ごと》に笑《わら》ふのです。
「おや、耳《みゝ》のない兎《うさぎ》」
「何《なん》といふ不具《かたわ》でせうね」
 もうお祭《まつ》りどころではありません。いそいで、泣《な》きながら山《やま》へ歸《かへ》りました。
 山《やま》へ歸《かへ》ると、親兄弟《おやきやうだい》は勿論《もちろん》、友《とも》だちも驚《おどろ》いてしまひました。そしてかわいさうに此《こ》の兎《うさぎ》は一|生《しやう》の笑《わら》はれ者《もの》となりました。


 運ばれる豚

 いつも物置《ものおき》の後《うしろ》の、汚《きたな》い小舎《こや》の中《なか》にばかりゐた豚《ぶた》が、或《あ》る日《ひ》、荷車《くるま》にのせられました。
 此《こ》の豚《ぶた》は夢想家《むさうか》でした。
「なんと言《い》ふことだ。天氣《てんき》は上等《じやうとう》、此《こ》のとほりの青空《あをぞら》だ。かうして自分《じぶん》は荷車《にぐるま》にのせられ、その上《うへ》にこれはまた他《ほか》の獸等《けものら》に意地《いぢ》められないやうに、用意周到《よういしうとう》なこの駕籠《かご》。さすが
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