ば、此方《こなた》は差迫る両側の建物に日を遮られて湿《しめ》つぽく薄暗くなつてゐる間から、彼方《かなた》遥《はるか》に表通の一部分だけが路地の幅だけにくつきり限られて、いかにも明るさうに賑かさうに見えるであらう。殊に表通りの向側に日の光が照渡つてゐる時などは風になびく柳の枝や広告の旗の間に、往来《ゆきき》の人の形が影の如く現れては消えて行く有様、丁度灯火に照された演劇の舞台を見るやうな思ひがする。夜になつて此方は真暗な路地裏から表通の灯火を見るが如きは云はずとも又別様の興趣がある。川添ひの町の路地は折々忍返しをつけた其の出口から遥に河岸通《かしどほり》のみならず、併《あは》せて橋の欄干や過行く荷船の帆の一部分を望み得させる事がある。此《かく》の如き光景は蓋《けだ》し逸品中の逸品である。
 路地はいかに精密なる東京市の地図にも決して明《あきらか》には描き出されてゐない。どこから這入つて何処へ抜けられるか、或《あるひ》は何処へも抜けられず行止《ゆきどま》りになつてゐるものか否か、それは蓋し其の路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位《くらゐ》では容易に判明すべきものではない。
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