路地には往々《わう/\》江戸時代から伝承し来つた古い名称がある。即ち中橋《なかばし》の狩野新道《かのうじんみち》と云ふが如き歴史的由緒あるものも尠《すくな》くない。然しそれとても其の土地に住古《すみふる》したものゝ間にのみ通用されべき名前であつて、東京市の市政が認めて以て公《おほやけ》の町名となしたものは恐らくは一つもあるまい。路地は即ち飽くまで平民の間にのみ存在し了解されてゐるのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出《みいだ》して自然と其の種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自《おのづか》ら彼等の棲息に適当した路地を作つたのだ。路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目体裁品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車富豪の自動車の地響《ぢひゞき》に午睡《ごすゐ》の夢を驚かさるゝ恐れなく、夏の夕《ゆふべ》は格子戸の外に裸体で凉む自由があり、冬の夜《よ》は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買はずとも世間の噂は金棒引《かなぼうひき》の女房によつて仔細に伝へられ、喘息持《ぜんそくもち》の隠居が咳嗽《
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