広き鍔《つば》ありて鉢巻のリボンを後に垂らしたり。ズボンは中学校に入り十五、六歳にいたるまで必《かならず》半ズボンなりき。その頃予の通学せし一橋《ひとつばし》の中学校にては夙《つと》に制服の規定ありしかば、上衣だけは立襟《たちえり》のものを着たれど長ズボンは小児の穿《うが》つべきものならずとて、予はいつも半ズボンなりしかば、この事一校の評判になりて大勢《おおぜい》のものより常に冷笑せられたり。頭髪も予は十二、三歳頃までは西洋人の小児の如く長目に刈りていたり。さればこれも学校にては人々の目につきやすく異人の児《こ》よとて笑はれたりしなり。
○つい愚にもつかぬ回旧談にのみ耽《ふけ》りて申訳なし。さて当今大正年間諸人の洋服姿を拝見して聊《いささ》か愚論を陳《の》ぶべし。
○日露戦争この方十年来|到処《いたるところ》予の目につくは軍人ともつかず学生ともつかぬ一種の制服姿なり。市中電車の雇人《やといにん》、鉄道院の役人、軍人の馬丁。銀行会社の小使《こづかい》なぞ、これらの者殆ど学生と混同して一々その帽子またはボタンの徽章《きしょう》にでも注意せざれば、何が何やら区別しがたき有様なり。以前は立襟の
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